司法試験の勉強会

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生存権とは?わかりやすく解説

生存権の意義

生存権とは,生存又は生活のために必要な諸条件の確保を要求する権利と定義付けうる。
一八,一九世紀の憲法は,国家の権力から個人を解放し,国民に自由を与え,平等を確保することをその目的とし,かつそれで足りた。
しかし,資本主義経済の発展に伴い,新たな不自由,不平等が生じ, 財産,労働,経済生活の自由,平等の保障のみによっては生活をすることのできない,いわば経済的弱者が多数かつ恒常的に存在するに至った。
ここにおいて「個人の尊厳」を実現するために,全ての国民 に「人間に値する生存」を保障することが要請され,国家にむかって,生活上の扶助を請求する権利としての「生存権」の観念が登場した。
二〇世紀に制定された憲法には,この趣旨の規定が現われ,1919年制定のワイマール憲法はその先駆的役割を果たしたといわれるが,日本国憲法も二五条一項において,「すべて国民は,健康で文化的 な最低限度の生活を営む権利を有する。」とうたっている。
ところで,生存権は,右に見てきたように,資本主義経済制度により生じたいわば矛盾点を,その制度の中において修正,是正しようと観念されたものであり,従ってそれを保障する規定(生存権規定)の性格が問題となる。

生存権規定の法的性格

プログラム規定説

憲法二五条一項は,国家権力(主として立法・行政機関)に対し,国家の努力目標,指針(プログラム)を示したものにすぎず,個々の国民に対し具体的権利を保障したものではない(従って,国家が現実にどのように右努力目標を達成するかは国家の政治裁量の問題であり,仮にこれが不十分であっても,国民が権利として,その達成を請求することはできない)とする説で,ワイマール憲法下のドイツでの通説であり,我が国においても後に見るように判例,通説ともこの考え方に立つと理解されている。
この説の根拠としては,おおむね次の三点があげられよう。
即ち,二五条の規定の仕方は抽象的であり,生存権の権利としての具体的内容については何ら規定していないこと。

仮に立法の不作為,不十分な立法があったとしても,現行憲法の定める裁判制度上,生存権の具体化に関する立法を法的に強制する是正手続がないこと。

生存権の保障は実際上国家の政治的,財政的,社会的諸条件に規定され,経済的制約の下にあること。
この説に対しては,それでは憲法の定める基本権規定の意義が失われてしまい,国家の政策(例えば具体的保護基準)に対する裁判的統制を遠ざける結果となり不当であるなどの批判があり,このような観点から,次に述べるように,限界はあるにしても,生存権規定に何らかの法的意味を付与しうる解釈をとるべきである,との見解も主張されている。

具体的権利説

この説は,二五条一項自体が,国民に対し,生存のための請求権を保障したものと考える。
即ち,立法のない時又は不十分な時には,国民はその国家の不作為や不十分な活動に対して,本条項のみを直接根拠として,その違憲性確認を求めうるとする。
しかし,この説に対しては,前述のように現行裁判制度との関係上問題があり,特にこのような訴訟を認めた場合違憲判決の実効性をどう確保するのか,という難点があるとの批判がある。

抽象的権利説

この説は,二五条一項は,裁判上の請求権を伴った具体化された権利を設定したものではないが,しかし国家に対して必要な立法その他の措置を講ずることを要求する抽象的権利を認めたものであると解する。
そして一たび具体的立法がなされれば,右の抽象的権利は,立法行為を通じて具体的権利に転 する,と説く。
即ち,例えばここに具体的保護立法(例えば生活保護法)があり,右保護に反する国家行為(例えば給付額削減の法改正)があったとする。
ところで,プログラム規定説によれば憲法規定からは何ら法的に意味のあることは導かれず,右立法によってはじめて請求権が付与される。
従って右削減も憲法上は何ら問題が生じないこととなる。
しかし抽象的権利説によれば,右立法上の権利は憲法二五条一項の生存権が具体化したものにほかならず,従ってその削減は単なる立法政策上の問題にとどまらず憲法問題―憲法二五条一項違反―になるわけである。

判例

下級審の判決には,生存権規定に積極的意味付けをしているものも散見されるが,最高裁は,食糧管理法の生産,配給統制規定に関する昭和23年9月29 日,生活保護法の保護基準に関する昭和42年5月24日(いわゆる朝日訴訟),児童扶養手当法の併給制限規定に関する昭和57年7月7日(いわゆる堀木訴訟)のいずれも大法廷判決において,「憲法二五条一項の規定は,福祉国家の理念に基づき,すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営みうるよう国政を運営すべきことを国の責務として宣言したにとどまり,国が個々の国民に対して具体的,現実的にかかる義務を有することを規定したものではない」旨判示し,プログラム規定説によるものと理解される。
もっとも最高裁は,右判示に続いて,「何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断」(朝日訴訟)あるいは「憲法二五条の規定の趣旨にこたえて具体的にどのような立法措置を講ずるかの選択決定」(堀木訴訟)は国家機関の広い裁量にゆだねられるとしつつ,「その裁量に逸脱,濫用がある場合には,違法な行為として司法審査の対象となる」旨判示しており,その限度においては司法審査の及ぶことを肯定している。
その権利の性質上,生存権の実現について国家機関に広い裁量権があることは否定できない。その意味でプログラム規定説は,最も素直な考え方といえよう。
こうした伝統的考え方に対して,あるいは憲法二五条一項に何らかの意味での権利性を付与し,あるいは裁量行為に司法審査を及ぼして,生存権をより実質的に保障しようという考え方が主張されている。