司法試験の勉強会

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表現の自由と検閲について現役弁護士がわかりやすく解説

表現の自由の意義・内容

表現の自由とは,字義どおりに解すれば,人の内心における精神作用を,方法のいかんを問わず,外 部に公表する精神活動の自由であるが,解釈論として,表現の自由の現代的意義をどのように理解すべ きだろうか。憲法が表現の自由を保障した趣旨は何か,また,憲法の保障する各種の人権カタログの中 で,この自由をどのように位置づけるべきかが問題となる。

個人

①憲法は,個人の尊厳を最高の価値としている(一三条,二四条二項)から,まず第一に,精神的・知的 創造物である人間が,国家から干渉されることなく,その精神活動によって自由に人格の形成・発展を 実現できること(個人の自己実現)を保障しなければならない。そのために憲法は,前国家的権利(一一条,九七条)として各種の精神的自由権を保障したが,精神活動はその成果を外部に発表したいという欲求(人 格の対外的実現)を必然的に伴うから,発表の手段が必要になるし,また,自己の知見を広めるためには, 必要な情報を数多くのソースから受領できる環境も存在しなければならない。表現の自由は,これらの 要求を充たすものとして,個人の自己実現の価値にとって不可欠だということができる。

②国政も各個人の自律的意思に基づくものでなければならず(国民の自己統治),主権者たる国 民が世論の力と立法過程を通して自らの体制を定められること(治者と被治者の自同性)を根本的特質と する民主政が,その期待どおりの機能を果たせるような制度を整えなければならない。そのためには, 自由な公開討論の広場が確保され,国民がそこに自由に参加して政治的意思を形成できる環境の存在が 前提となる。かくして,あらゆる表現(とりわけ政治的意見表明)の自由は,民主政の過程を基礎づけそ れを維持していくのに不可欠な機能を営み,国民主権に直結するものということができ,それゆえに表 現の自由は「民主政の生命線」ともいわれるのである。  加えて,現代国家では,資本主義の高度化による矛盾の顕在化に伴い,社会福祉国家の理念が掲げら れ,国家の任務のひとつとして社会的弱者保護のための積極的な行為が求められている。そして,かか る福祉政策の達成には専門的技術的知識と迅速かつ円滑な運営が要求されるため,専門分野ごとに分化 し独任制で機動性を有する行政機関が現実の担い手とされ,その権限が強化された結果,本来は法の執 行機関にすぎない行政府が国家基本政策の形成決定に中心的・決定的役割を営むようになった(行政国家 現象)。その反面,肥大化した行政権のゆき過ぎによる議会主義や権力分立の形骸化,人権侵害の危険も 増大したため,ここに至って,民主的基盤をもつ国会が行政権を抑制すること(国会の内閣に対する民主 的コントロール)の重要性が再認識されており,民主性に不可欠な表現の自由の保障も一層重要性を増し ている。したがって,表現の自由の保障の重点及び現代的意義は,自己統治の価値の実現にとって不可 欠な点に求められるといってもよかろう。

表現の自由の優越的地位

以上①②の不可欠性ゆえに,表現の自由は「ほとんどすべての他の形式の自由の母体」(佐藤幸治・ 憲法三五一頁)とされ,人権のカタログにおいて優越的な地位を占めるといわれている。

このように見てくると,国民の政治的意思形成に重要な役割を果たす政治・社会・経済的事象に関す る情報の流通を確保することも,民主政の運営に不可欠であって,当然,表現の自由の範疇に含めるべ きことがわかる。したがって,事実の報道の自由もこれに含まれると解すべきである(最大決昭和四四・ 一一・二六・刑事最判解説 42 事件も同旨)。  更に,情報を伝達する行為は,情報を受けとめる行為があってはじめて有意的になるものだが,情報 が国家権力やマスメディアへ集中し,情報の送り手と受け手が分離している現代社会では,国家機密な どに見られる情報の機密化やマスメディア等による情報の自主規制等が表現の自由に対する大きな脅威 となっている。そこで,国民の政治過程への参加を確保し,憲法が表現の自由を保障した前記①②の趣旨を達成するためには,表現の自由の観念を受け手の側から再構成する必要があり(表現の自由の現 代的変容),国民が情報を受容する自由(知る権利)も十分に保障しなければならないというべきである。 かくして,表現の自由とは,単なる精神作用の表出活動にとどまらず,「思想,信条,意見,知識,事 実,感情など個人の精神活動に関わる一切のものの伝達に関する活動の自由」と解するのが相当である。

表現の自由に対する制約

しかし,人権観念も,当然のことながら人間の共同の社会生活を前提としている。そして,個人が社 会内で共同生活を営む以上,他者の人権や他の社会公共的利益との矛盾・衝突を免れることはできない ので,その場合には制約を受けざるをえず,表現の自由もその例外ではない(かかる制約のことを,人権 保障そのものに不可避的に内在している制約という意味で「内在的制約」といい,一二条・一三条の「公 共の福祉」という概念を,対立する基本的人権間の矛盾・衝突を調整するための原理と捉えるのが普通 である。
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 そこで問題となるのは,いかなる場合にどの程度の制約が許されるか,である。憲法は法律等の憲法 適合性の最終的判断権を裁判所に与えているので(八一条),裁判の場で,いかなる基準を適用して人権 制約立法の合憲性を判断すべきかが重要になる。  この点,国会は国民の意思が直接反映する国家機関であり(一五条一項,四三条一項),立法の資料収 集能力においても他の二権に勝っている(六二条,八六条,九一条等)から,原則として国会の意思を尊 重すべきであって,国会の立法は合憲性の推定を受け,違憲と主張する側で明白に不合理であることを 立証しない限り合憲と解すべきようにも思える(明白性の原則)。

 しかし,既に述べたとおり,表現の自由は自己実現・自己統治の価値に不可欠であるうえ,ひとた び表現の自由が侵害された場合には,自由な討議によって成立する民主政の過程そのものが傷つけられ, もはや「投票箱と世論という民主政の過程」に訴えて立法府の過誤を是正する途は閉ざされてしまう(こ れに対し,社会経済政策の実施の一手段として政策的見地からなされた経済的自由に対する規制立法が 不当であっても,それは民主政の機構を通じて排除することができる。)。  

したがって,表現の自由に対する規制立法の合憲性判定基準は,経済的自由の場合より厳格であり,「当該規制より緩やかな規制では立法目的を十分に達成することができないと認められること」が要求 され(厳格な合理性の基準),合憲性の推定は排除され,合憲と主張するものが右の厳格な基準を充たす ことを挙証しなければ違憲とされると解するのが相当である(二重の基準論。最大判昭和四七・一一・二 二刑事最判解説 28 事件も同旨)。
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 そうだとすれば「表現行為がなされるのに先立ち公権力が何らかの方法でそれを規制すること」(事前 抑制)は,原則として許されず,事後の制裁ではどうしても規制の目的を達成できない場合に限って例外 的に認められると解すべきである。なぜなら,事前抑制は,事後制裁に比べ,情報が思想の市場に到達 する途を閉ざし又はその到達を遅らせてその意義を失わせるものであって,実際上の抑止効果が大きい うえ,規制そのものが予測に基づくため広範囲に及びやすく,濫用の虞も強いからである。また,手続 上の保障において伝統的な刑事手続に見られるような強い保障がないからである。

検閲の概念

憲法は更に,二一条二項において,検閲の禁止を規定している。では,この規定の趣旨を どう理解すべきか。また,検閲とは何だろうか(事前抑制と同義か)。  ここで注意すべきは,検閲禁止の趣旨の捉え方と検閲の概念の捉え方とが密接に関係していることで ある。すなわち,検閲の禁止を絶対的なものと解する場合には,ある制度が検閲に該当するとされれば それは直ちに許されないという強い効果を伴うことになるが,憲法の人権規定の解釈にあたっては,多 種多様な諸利益の比較較量を要求される場合が多く,安易に解釈過程から利益衡量を排除してしまうの は適当でないため,かかる立場からは,自ずと検閲の概念を狭く観念することになる。これに対し,検 閲禁止を絶対的禁止ではないと解する場合は,たとえある制度が検閲に当てはまっても,当該制度が許 されないものとされるかどうかは,最終的には,それが公共の福祉によって容認される制約か否か(検閲 が例外的に許される場合の条件は何か,当該制度はその条件を充たしているか)という観点から決せられ るため,検閲の概念を多少緩やかに定めても不都合はないということになる。
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(一)  そこでまず,検閲の禁止を絶対的なものとみるべきか,それとも,公共の福祉による例外を許容する 趣旨と解すべきかが問題となる。  仮に,後者だとすると,同条項は,表現の自由に対する事前抑制は原則として禁止されるが,さりと て表現の自由といえども絶対無制約ではなく,公共の福祉に基づく例外のひとつとして検閲による制約 を受ける可能性もありうるということを,単に重ねて確認したにすぎない規定になってしまう。これで は,わざわざ二一条一項に表現の自由を保障する一般的な規定を置きながら,別に検閲禁止についての 特別規定として二項を設けた趣旨の大半が失われてしまうだろう。そうだとすれば,二一条二項は,憲 法制定者が多くの利益を較量した結果,拷問の禁止(三六条)や事後法の禁止(三九条)と同様に,人権に とって最も危険なもののひとつとして検閲を掲げ,その絶対的禁止を憲法規範としたものとみるのが相 当である。  また,二一条二項は,その沿革上,諸外国や我が国の旧憲法下において,表現を事前に規制する検閲 により表現の自由が著しく抑圧された歴史的経験を踏まえて設けられたものと見られる。その意味でも, 表現の自由に対する最も強力で厳しい抑圧手段となる事前の規制を検閲と呼び,これについてはとくに 公共の福祉による例外をも許さない旨明らかにし,例外を許容することによってそこから禁止が緩めら れ,再び表現の自由が封殺される危険を排除しようとしたものと解するのが妥当である。  したがって,二一条二項は,検閲の絶対的禁止を宣言した趣旨と解すべきである。
(二)  そうだとすると,検閲とは,事前規制の中でもとくに表現の自由に対する抑止的効果が強く,絶対的 に禁止すべきものを指すと解すべきことになる。ただ,そうなると,検閲の要件を過不足なく掲げて一 義的に定義するのは極めて困難になるが,一応は,1主体,2対象,3目的,4範囲,5内容(手段,方法),6効果の客観点から,「1行政権が主体となって,2思想内容等の表現物を対象とし,3その全部 又は一部の発表と禁止を目的として,4対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に,5発表前に その内容を審査したうえ,6不適当と認めるものの発表を禁止することを,その特質として備えるもの」 ということができよう。
 税関検閲を合憲とした最大判昭和五九・一二・一二(民事最判解説 29 事件)の趣旨も,以上のように理 解すべきものと思われる。
(三)  以上に対し,(1)検閲の主体を行政権に限定せず,対象を思想内容のみに絞る見解(宮沢・憲法II三六六 頁),(2)検閲の主体を行政権に限定せず,また,事前=発表前とは考えず,知る権利の観点から,発表後 受領前に審査するものについても実質的に事前検閲と同視しうる重大な影響を表現の自由に与える場合 は検閲にあたるとしたうえで,行政権による検閲は絶対的に禁止され,司法権による検閲には例外が許 容されうるとする見解(芦部信喜『演習憲法』有斐閣一四〇頁。以下「芦部説」という。)などがあるが, 対象を思想内容に限定するのは,前記一 3 で述べた表現の自由の現代的意義に鑑みて狭すぎるし,また, 主体や手段・方法を広く解するのは禁止の絶対性を不明確にするきらいがあるので,いずれにも賛成で きない。
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 かかる立場にたつと,結局,表現の自由に対する制約は,事前の抑制と事後の制裁とに大別でき,事 前の抑制の中には「検閲」と「検閲にあたらない事前抑制」とがあって,ある事前抑制的な規制手段が 検閲にあたるとされれば,それは二一条二項により絶対的に禁止されるのに対し,検閲にあたらないと されれば,更に公共の福祉による必要最小限度の規制として許されるか否か(二一条一項に反しないか) が問題となる。次の四項で,具体的制約が検閲にあたるか否かを検討するが,検閲にあたらないからと いって直ちに当該制約が合憲とされるわけではない。

検閲禁止が問題となるケース

言論・出版の仮処分による事前差止め

司法裁判所が主体であり,主に1の観点から検閲には当たらない。しかし,検閲に近い機能をもつの で,(1)差止めを求める出版物が原則として「公務員又は公職選挙の候補者に対する評価,批判等に関す るもの」ではなく,「その表現内容が真実でないか又は専ら公益を図る目的のものでないことが明白で あって,かつ,被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞がある」という実体的要件と,(2「) 原 則として,口頭弁論又は債務者の審尋を経る」という手続的要件の双方を充たしたときにのみ認められ ると解すべきであろう(最大判昭和六一・六・一一民事最判解説 19 事件,加藤和夫「北方ジャーナル差 止国賠事件最高裁大法廷判決」ジュリスト八六七号五〇頁)。  これに対し,芦部説では,検閲にあたるが,右(1)(2)の要件のもとでは例外的に許されるということ になる。なお,裁判所が主体であっても,口頭弁論も開かず,理由も付さずに表現行為を差し止めるの は実質的には行政処分と解すべきであるとする見解もある(佐藤幸治『憲法II』〔芦部編〕四八七頁)。

教科書検定制度 

教科書として発行しえないにとどまり,出版そのものが禁止されるわけではないので,主に6の観点 から検閲にあたらないと解される。  なお,この制度については,他にも,教育の自由(二六条)及び学問(教授)の自由(二三条)に反しないか, 適正手続の保障(三一条)が及ぶか,といった問題がある。

税関検査(関税定率法)

税関検査は,関税徴収手続の一環としてそれに付随して行われるもので,思想等の規制そのものを目 的とした網羅的な検査ではないし,ある表現物の適法な輸入の途を閉ざすにすぎず,発表の機会を全面 的に奪うものでもない。また,一般に当該表現物は国外においては発表済みのものである。したがって, 主に2346の観点から検閲にはあたらないというべきである。前記最大判昭和五九・一二・一二も, 裁判官の全員一致により税関検査の検閲該当性を否定した。

有害図書類の販売規制(青少年保護条例)

出版物そのものの発売を禁止するわけではなく,出版後に,限られた範囲の受け手への頒布を抑制す るにとどまるから,検閲にはあたらない。ただし,出版後の規制でも検閲にあたる場合があるとする芦 部説では,検閲にあたりうるということになろうか。

集団示威行進の許可制(公安条例)

集団行動の場所,方法などの外形的規制にとどまり,その内容の審査ではないから,主に25の観点 から検閲にあたらないといってよかろう。もっとも,一般的許可制が許されるかどうかは,二一条一項 との関係で問題が多い(最大判昭和二九・一一・二四刑集八・一一・一八六六,最大判昭和三五・七・二 〇刑事最判解説 70 事件,最大判昭和五〇・九・一〇刑事最判解説 17 事件)。

映倫等による自主規制

行政権が主体ではないので,検閲ではない。しかし,芦部説の趣旨を徹底させると,自主規制であっ ても,公権力からのインフォーマルな強い影響を受け,それを実質的に代弁するような形で一定の情報 を市場から排除するような場合には,検閲を構成することもあるということになろう。

その他,虚偽誇大広告の規制(薬事法,宅建業法など