一
憲法二一条は表現の自由を保障している。一九条の保障する思想,良心の自由の理念は,当然に表現 の自由の保障を要請する。憲法は,内心における思想,良心の自由を保障し,さらに,内心の思想を外 部に発表する表現についても,その自由を保障しているのである。ところで,本条は,言論,出版の自 由とともに,集会,結社の自由をも列挙している。各国の人権宣言の多くは,狭義の表現の自由,すな わち言論,出版の自由と,集会,結社の自由とは区別して規定している。現行憲法は,集会,結社の自 由が外部に向けての表現という観点から問題となるため,これらの自由も表現の自由に包摂させている と解される。判例(最判昭和 35 年7日 20 日)も,集会,結社の自由が表現の自由の一部となることを認 めている。さて,表現の自由は,思想,良心の自由のように,いわば内心の自由にとどまるものでなく, 積極的に外部へ表現する自由を保障していることから,余程の場合でないと人権に対する侵害が考えら れず,人権への制約がそれほど観念されない思想,良心の自由と比べて,他の人権,利益と衝突する局 面が多く,そのために人権への制約がしばしば問題となる。しかし,表現の自由は,他の経済的自由権 と異なり,最大限の尊重がなされるべきもので,人権の制約には合理的基準が示されなければならない と解されている。というのは,表現の自由が,思想,良心の自由から派生するものであって,表現の自 由に対する不合理な制約は,ひいては思想,良心の自由に対する重大な脅威になりうるのであるし,ま たそのような歴史的経験にも基づいて考えられるところであるが,さらに,憲法の根幹をなす民主主義 の理念を達成するためには,自由な思想の発表を通じて,思想の淘汰を図り,真理を発見していくこと が不可欠となるのだから,表現の自由を尊重することは,民主主義の原則からも要請されると考えられ るようになった。表現の自由の尊重が強調される反面,表現の自由が他の人権及び利益との衝突する可 能性を有しているので,人権への合理的な制約が肯定されるところから,人権を尊重する意味において の制約の合理的基準を示そうとする理論的試みがなされることになる。思想の表現が有害であったとし ても,一応社会に有害性が示されたうえで抑制がなされるべきで,社会的な抑制に対する批判が生じえ ないような事前抑制は禁止されるべきであるとする考え方。表現の自由を制約する立法には,明確な法 的基準が示されるべきで,法律要件そのものが漠然としている場合は,法そのものが違憲となるという, 漠然性のゆえに無効の理論。表現の自由に対する制約に際しての利益衡量において,表現に伴う他の人 権,利益に対する危険が,明白でかつ現在している場合に,人権の制約が許されるとする,明白かつ現在の危険の理論。間接的に表現の自由を制約する立法について,他に人権を制約することの少ない方法 によって立法目的を達成することができる場合に,当該法そのものを違憲とする,より制限的でない他 の選びうる手段の基準などが,表現の自由に対する制約の基準を示そうとして現われた理論である。こ のうち,事前抑制の禁止については,憲法そのものが,二一条二項において検閲を禁じ,明文化してい る。
二
表現の自由が,民主主義の理念から思想の自由な発表による淘汰の考え方に導かれるものであるとす ると,そのうち,言論,出版の自由に対する保障が重要なものとなってくる。つまり,表現の自由が個 人の自由かつ自律した考え方の構成のために保障されたものであるとすると,その裏面において,個人 に対し十分な知識及び事実を伝達することが保障されなければならず,言論,出版の自由に対する配慮 が要請される。そして,そのうち,個人に対する報道機関による事実の伝達の面を特に取り出して,報 道の自由と呼んでいる。報道の自由が達せられるためには,正確な事実の把握が前提となるわけだから, 報道の自由は取材の自由に裏打ちされていなげればならない。従って,報道の自由は表現の自由の一部 をなし,取材の自由は報道の自由の系になるということができる。 判例は,取材の自由に関して,法廷における写真撮影の制限を肯定した判断のなかで,写真撮影は報 道のための準備行為であり,報道行為そのものでないと判旨していた(最決昭和 33 年2月 17 日)が,そ の後,取材フィルムの提出命令を肯定した判断において,報道は国民の知る権利に奉仕するとしたうえ で,取材の自由は憲法二一条の精神に照して,尊重に値すると判旨する(最決昭和 44 年 11 月 26 日)に 至った。取材の自由は,必要な報道をなして,自由な伝達を確保し,出版の意見形成の機能を確保する ために認められるのであるから,取材活動そのものに特権を付与するものではないし,報道行為と直接 の関連のない利益を承認するものでもないといわなければならない。その意味から,取材の自由は取材 の権利を含むものではないという指摘(宮沢俊義)は正当なものを持っている。判例は取材の自由を表現 の自由から派生するものとして認めてはいるが,それはあくまで,取材活動の自由なのであるし,又報 道の自由に奉仕するものなのであって,取材を受ける側に義務の負担を生ずるような,取材の権利を創 設したとは考えられない。さらに,取材の自由は,一般の表現の自由以上に積極的な行動を伴うもので あるため,他の人権,利益と衝突することも考えられるが,取材は報道そのものの準備的行為であるか ら内心の自由と密接な関係にあるとはいい難く,国民の意見形成に資するという意義から適正な利益衡 量がなされなければならない。その趣旨に徴すれば,すでに述べた二判例,及び取材源の秘匿を理由に する証言拒絶権を否定した判例(最判昭和 27 年8月6日)は,これを肯定することができる。