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責任能力とは?わかりやすく解説

一 問題の所在


刑法三九条一項は,心神喪失者の行為は罰しないと定めている。即ち,刑法の非難の対象になるのは責任能力ある行為のみである。
これを行為と責任能力の同時存在の原則といい,責任主義から当然に導かれる理論である。
しかし例えば,酒を飲めば責任能力がなくなり人を殺傷するかも知れないことを予見しながら,責任能力ある状態で飲酒をして,責任無能力になった者が,人を殺した場合のように,結 果行為時には責任能力がなくとも,その原因行為時には責任能力が認められる場合,処罰すべきではないかという問題があるのである。
これが「原因において自由な行為」の問題である。この問題を考えるについては,右の行為の処罰の必要性と同時存在の原則とをどう調和させるかが一つのポイントになる。


二 いわゆる「道具理論」について


この問題について通説的な解決方法は,原因において自由な行為の場合を分析して,責任能力時における自己の身体活動を一種の道具として利用しているのであり,間接正犯と同一の構造をもつものとする。そして間接正犯の実行行為は利用者の行為であるから,原因において自由な行為の実行行為時は, 原因行為であると理解するのである。
この説の特色は,原因行為=犯罪の実行行為であると解する(結果行為は因果の流れということになろう)ことにより,行為(=実行行為)と責任能力の同時存在の原則を認めようというものであり,こう理解することにより,原因において自由な行為のケースの処罰の要請と同時存在の原則とが矛盾なく説明できる。
しかし,この説には次の問題がある。 最も大きい点は,この説によると,例えば冒頭の例だと,酒を飲むことが殺人の構成要件該当行為ということになり,非常識な結論になる「( 殺人の定型性がない」といった用語を使う)。
つまり,同時存在の原則とは,矛盾がなくなっても,構成要件の厳格性との関係で矛盾が生じているのである。そこで, 通説の立場は,過失犯の場合は定型性がゆるやか(開かれた構成要件)であり,右の理論をあてはめやすいが,通常の故意犯の場合はあてはまり難いと説明する。この結論の妥当性自体にも問題が残ろう。
第二に限定責任能力の場合の説明に窮するが,これについては後述。
第三に,原因において自由な行為と間接正犯とが同一の構造を持っているかという点である。
つまり, 間接正犯の場合,責任無能力者に対してある働きかけをして,被利用者に意思を伝達することになるが, 原因において自由な行為の場合にはそのようなことがない。
第四に間接正犯について,実行行為は,利用行為時とは限らない(実質的な危険の発生時とする。)という見解が有力化している。


三 同時存在の原則を緩和する考え方


第二のアプローチは,端的に同時存在の原則をゆるめて,問題の解決を図ろうとする考え方である。
この立場に対しては,第一に,同時存在の原則を緩和する根拠は何か,第二に,同時存在の原則を緩和すると,処罰の範囲が無限定に拡がるおそれがあるので,その範囲をどこまで認めるか,の二点が指摘される。以下,この立場の諸説を概観してみよう。
第一説(西原説)は,責任主義について,責任評価は違法行為をなしたこと自体にあるのではなく,違法行為をなした行為者の意思決定にあるとする。そして,一定の意思決定に基づいた予備以前の行為, 予備行為,実行行為が一個の行為であり,行為と責任能力の同時存在というときの「行為」とは必ずしも実行行為に限らず,右の意味における行為を意味する。従って,少なくとも行為の開始時である最終意思決定時(変更,撤回の可能性のない意思決定がなされた時)に責任能力があれば足りると解している。この立場によれば,原因において自由な行為が罰せられるのは,原因行為と結果行為が一個の特定の意 思の実現過程であるか,つまり一個の行為であるか否かにより決せられることになる。
第二説(平野説)は原因において自由な行為には,(i)行為の意思と結果行為の意思が不連続的であるとき, (ii)両者が連続しているとき(例えば,殺傷行為をするについて勇気づけのため酒を飲み,計画どおり相 手を殺傷した場合など)があるとし,前者については,原因行為時に,結果行為をなす予見があるとして も,結果行為時に予見どおりの意思をもつかは偶然に属するから処罰できないとし,(ii)については,犯意がそのまま実現されたのであるから,処罰は可能であるとする。
第三説(藤木説)は,自らの意思で責任無能力の状態に陥っておきながら,責任無能力ないし,同時存在の原則を援用するのは,公平の見地から妥当性を欠くという立場をとり,少なくとも責任能力のある時に故意があり,かつ,責任無能力の状態でも故意が継続しているときは,同時存在の原則の例外を認 めても,社会的公平の理念に合致し,許されるとする。


四 限定責任能力の場合


飲酒等をなすことによって限定責任能力になった場合も,原因において自由な行為理論が適用されるかという問題がある。 いわゆる道具理論からは,論理的には否定することになると思われる。
限定責任能力者は,翻意の可能性が残っている以上道具とはいえないし,肯定すると,原因行為としての実行行為と,限定責任能力状態にある間の結果行為としての実行行為という二個の実行行為を認めることになるからである。
しかし,この見解によると,原因行為により責任無能力になった場合には,減軽すらされないのに,限定責任能力になったら,刑が減軽される(刑法三九条二項)ことになり,不均衡であると指摘される。 同時存在の原則を緩和する立場に立てば,各々の論拠により,いずれもこの法理の適用を肯定する。
判例は,自動車に乗ってバーに行き,飲酒して心神耗弱になった後の酒酔い運転のケース(最判昭四 三・二・二七),覚せい剤を使用して心神耗弱になった後,残った覚せい剤を使用し,所持したケース(大阪高判昭五六・九・三〇)について,いずれも刑法三九条二項を適用しないと判示し,肯定説を採ったものと解されている。

 

五 結論


以上概観したように学説は分かれている。前にあげた二件の判例のようなケースについて,はたして道具理論で説明できるか,つまり,限定責任能力の問題はしばらく措くとしても,判例のようなケースがはたして,自己の責任無能力を利用したとして間接正犯とのアナロジーで説明できるかどうか,疑問があるといえよう。
むしろ,判例のすう勢は,原因行為と結果行為の意思の連続性ないしは原因行為と結果行為を総合的にみて一個の行為とみえるかという方向で考察していると思われる。また限定責任能 力の場合の不均衡の問題もある。
以上から,筆者は,第二のアプロ-チの方が方向としては妥当のように思われるのである。しかし,はたして第二のアプロ-チに関する諸説が,指摘した二つの問題点,即ち同時存在の原則との理論的整合性,処罰範囲の合理的限定について,成功しているかについては,なお疑問を留保したい。

 

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