一
共同正犯の本質は,共同正犯者が相互に犯罪実行の意思を共同にし,犯罪を実現することにあるのだ が,共同正犯者がどのような場合に,共同して犯罪を実現したというかについては対立がある。構成要 件による定型性を重視する客観説の立場は,共同正犯者が相互に一定の構成要件を実現するという意思 を通じることを要すると解している。
この立場を犯罪共同説というが,共同正犯者の相互間に同一構成 要件についての意思の連絡までを要求するわけではなく,相互の犯罪実行の意思の間に,構成要件とし て重なり合う部分がある場合には,その限度で共同正犯を認めることができることになる。
例えば,A は殺人の故意で,B は傷害の故意で意思を通じ,被害者に傷害を負わせた場合には,A には殺人未遂罪, B には傷害罪が成立するが,A と B とは,傷害罪の範囲で共同正犯の関係に立つことになる。これに対 して,主観説は,犯罪を処罰するのは,犯罪行為として現われるに至った犯罪者の危険な性格を処罰す ることにあるという,犯罪徴表説のもとに,共同正犯について,構成要件という定型的な考察を認める ことなく,犯罪行為を共同して実行する意思にある以上,相互の意思が構成要件的に重なり合うことが なくとも,共同正犯の関係を認める。
これを行為共同説という。
過失犯の共同正犯については,行為共同説に立つかぎり,結果回避義務を怠った作為,不作為を共同 して行うという,自然的に見た場合の行為を共同して実現する意思の連絡があるわけだから,容易に肯 定される傾向にある。
しかし,犯罪共同説に立つならば,特定の構成要件に向けられた意思の連絡が要 求されるわけだから,犯罪を実行するという意思の連絡がある故意犯の場合に比して,過失犯の共同正 犯を認めることは困難になる。
基本的には,犯罪の成否の基準を定型的な構成要件に求める,客観説に よるかぎり,犯罪共同説に従って考察すべきものと思われる。もっとも,犯罪徴表説をとっていた学説 のなかには,目的的行為論の考え方を採り入れ,過失犯にあっては,構成要件的に重要な結果の認識は ないにしても,結果回避義務を尽くさない行為を支配する目的は共同にしているのだから,意思行為の 共同があり共同正犯も成立しうると説く見解(木村亀二)もある。
二
ところで,過失犯の共同正犯は,複数者が危険な業務に携っている場合に,いずれかの者によって結 果が引き起こされたことは明らかであるが,それが誰の手によるものか不明である場合に,一定の範囲 の者を過失犯の共同正犯として把えることによって,直接原因となる過失を担った者を特定することな く,犯罪の成立を認めることができる。
しかしながら,正犯を把える概念について,一般の故意犯に関しては,一定の構成要件に当る行為を 行った者を正犯とし,これに従属する,教唆犯,幇助犯は,処罰を拡張する事由であると考える限縮的 正犯概念が通説であるが,過失犯については,犯罪に何らかの条件を与えた者は全て独立した正犯とし て把え,教唆犯,幇助犯は,刑罰の減軽や,未遂犯について不可罰とする場合を定めるための,処罰を 減縮する事由であるとする拡張的正犯概念が有力でもある。
この拡張的正犯概念に従うならば,過失犯 は,結果を予見可能であり,かつその結果発生を導く行為をした者は,教唆犯,幇助犯の概念が関与す る余地もなく,全て正犯として考えるということになる。そうであれば,とりたてて過失犯の共同正犯 という概念を持ち込むまでもなく,単独犯の過失犯を各人について考察すれば,全てを賄うことができ る。
しかし,故意犯において教唆犯や幇助犯にとどまる行為を,過失犯においては,全て正犯とするこ とは困難であるばかりか,過失犯は結果について直接の因果関係を有する結果回避義務を負担する者に ついてのみ認められるのであるから,容易に拡張的正犯概念に従って考察することはできない。 むしろ,過失犯の共同正犯は,直接の因果関係に立つ結果回避義務を担っていた者を特定することな く,一定の範囲の者にこれを認め罪責を負担させる必要がある場合に,理論的に共同正犯関係を認めて, 一定の者らに罪責を拡張することができるかという観点から考察されなければならない。
三
このように,直接の結果回避義務を負担していた者を特定しえないときなどに,過失犯の共同正犯関 係を認める実益があるが,他方において,客観説に基づく犯罪共同説の立場からは,にわかに過失犯の 共同正犯を肯認することはできない。
しかしながら,判例は,当初過失犯に共犯規定の適用がないこと を理由に共同正犯関係を否定していたが,飲食店の共同経営者に,誤って法 定の除外量以上のメタノールを販売したことについて,過失犯の共同正犯を認めるに至った(最判昭和28 年1月 23 日)。このことをもって判例が行為共同説に,立場を変更したと評することはできない。
判例 が犯罪共同説の立場を維持していることは,他に現われた判例からも明らかである。 問題は,犯罪共同説の立場からも過失犯の共同正犯を理論付けられないかということにある。そのた めには,共謀共同正犯の理論が参考になる。共謀共同正犯を否定し,構成要件を実現するための共同意 思に基づく,犯罪の共同実行をもって共同正犯を根拠付ける立場からは,過失犯には,構成要件を実現 する共同意思はなく,非定型的な結果回避義務違反をもって犯罪の共同実行ということもできないし, 共謀共同正犯を認める共同意思主体説からも,刑法の個人責任主義が端的に現われる過失犯の場面にお いては,犯罪実現のための共同意思の形成は看取することができない。
しかし,近時共謀共同正犯を個 人責任の原則から根拠付ける立場が現われた。大きく分けて二つの立場がある。
一つは,目的的行為論 に依拠した立場であり,共謀者が実行者の意思に作用し,実行者とともに一定の目的のもとに,その行 為を支配している場合には,共同正犯と考えられるというのである(平場安治)。
もう一つの立場は,共 謀者が相互に相手の行為を自己の行為として利用し,自己の行為で相手の補充する関係にある場合,互 いに間接正犯類似の関係にあるわけだから,実行行為を担当しなかった者にも,共同正犯としての罪責 が認められるというのである(藤木英雄)。そして,判例のなかには,不明確ながらも後者の立場をとっているとみるべきもの(最判昭和 33 年5月 28 日)もある。
このような,個人責任主義に立脚した共謀共同正犯の理論によるならば,過失犯の共同正犯を肯定す ることができる。すなわち,犯罪の共同実行の意思は,過失犯の場合明確に構成要件の実現をする意思 としては把えられないにしても,結果回避義務を尽くさない行為を支配する不注意な目的を相互に有す るものとして(木村亀二),あるいは,結果回避義務を尽くす行為について,相互利用・補充の関係に立 つものとして(藤木英雄),共通に存在する注意義務を認識することができるからである。
そしてまた,そ のような場合に限って犯罪共同説の立場からも過失犯の共同正犯を認めることができる。
要するに,過 失行為共働の形態において,他人の行為を目的的に支配する注意義務が認められる場合,他人の行為を 利用し補充する関係での注意義務が認められる場合に限って過失犯の共同正犯が肯定される。安易な, 拡張的正犯概念によって,広範に過失犯の単独犯を認めるわけではないことに注意を要する。そして, 過失犯が,結果回避義務を尽くさない作為,不作為であることからすれば,共通の注意義務に基づく過 失犯の共同正犯においては,共同正犯者が相互に結果回避義務を負担しているのであるから,共同実行 の場合以外には考えられない。過失犯の共同正犯は,実行共同正犯以外にありえないことになる。