司法試験の勉強会

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裁判を受ける権利とは?解説

一 意義


憲法三二条は,「何人も,裁判所において裁判を受ける権利を奪われない」と規定し,裁判を受ける権利を保障している。
裁判を受ける権利は,何人も裁判を拒否されないということを保障するもので,その具体的な内容は次の二つである。
第一に,民事及び行政事件においては,何人も憲法により司法権を行使すべきものと される裁判所に訴訟を提起し裁判を求める権利を有することを保障し,この面では受益権としての性格を有している。
第二に,刑事事件においては,何人も憲法により司法権を行使すべきものとされる裁判 所によるのでなければ刑罰を科せられないことを保障し,この面では自由権としての性格を有しており, 憲法三七条一項の「公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利」と重複して規定されていることにな る。 明治憲法においては,裁判を受ける権利は一応認められていたものの(二四条),行政事件については,司法裁判所とは別の行政裁判所に訴訟を提起すべきものとされていた上(六一条),さらに法律で訴訟を 提起しうる事項が限定されていたため(列挙主義),裁判を受ける権利の保障は十分なものではなかった。 これに対し,現行憲法は民事事件,刑事事件のみならず行政事件を含む全ての裁判を司法裁判所の権限 に属するものとしているから(七六条一項,二項),裁判を受ける権利の保障は行政事件を含む全ての「法 律上の争訟」に及ぶことは明らかである(裁判所法三条一項)。


憲法三二条にいう「裁判所」の意義


本条にいう「裁判所」とは,「最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所」のこ とである(七六条一項)。法律により設置された下級裁判所は,高等裁判所地方裁判所家庭裁判所及 び簡易裁判所である。これら以外のいかなる機関も本条にいう「裁判所」とは認められない。 なお,裁判所の組織や管轄権は法律で定められるべき事柄であるから(それらについて本条は直接触れていない),管轄違いの裁判所による裁判は違法ではあるが,違憲とはいえない(本条は訴訟法で定める 管轄権を有する具体的裁判所において裁判を受ける権利を保障したものではない)とするのが判例である (最判昭和 24・3・23)。


憲法三二条にいう「裁判」の意義


(一) 本条にいう「裁判」とは,当事者間に法令を解釈適用することによって解決しうべき権利義務に関す る具体的紛争が存在しそれが訴えられた場合にその権利義務の存否を確定する作用である。したがって, 訴訟の目的たる権利関係につき裁判所の判断を求める法律上の利益を欠く場合,本案の審判を拒否して も,「裁判を受ける権利」の保障に反するものではない(最判昭和 35・12・7)。
(二) 本条にいう「裁判」の意義については,さらに「裁判の対審及び判決」は公開の法廷で行わなければ ならないと定める憲法八二条にいう「裁判」との関係が検討されなければならない。すなわち,憲法三 二条は,八二条とあいまって公開・対審・判決という訴訟手続による「裁判」を受ける権利を保障する ものであるのかが問題となるのである。刑事事件については,憲法三七条の保障規定が存するので,民 事及び行政事件について問題となる。特に,従来,民事紛争を解決するための裁判は公開・対審(口頭弁 論)・判決という近代法の訴訟原理に従って行われてきたが,最近では,このような公開・対審・判決に よる訴訟という形をとらないで,訴訟ではない――いわゆる非訟という――形で処理される場合がでて きており,そこで,民事紛争をこのような非訟手続によって処理することが憲法三二条及び八二条に抵 触しないかが問題となるのである。
1憲法三二条と八二条の関係をどのようにとらえるべきかという問題については,従来二つの対立する 見解が主張されている。
a憲法三二条にいう「裁判」と八二条にいう「裁判」とを別個の意味に解すべきであるとする見解。三二条は単に裁判を受ける権利といっているだけであるし,八二条もすべての裁判が必ず公開・対審・判 決の手続を経るべきものとしているわけではないから,三二条と八二条を結び付けて考える必要はない ことを理由とする。この見解は,三二条は裁判所でない機関によって裁判されることのないことを保障 した点に重点があるとみて,ある事件の裁判に際して伝統的な公開・対審・判決の訴訟手続によるか, そうでない非訟手続によるかは,事件の性質によって政策的に決定できる事柄であるとしている。した がって,この見解によれば,民事紛争を非訟手続によって処理することは何ら憲法三二条,八二条に抵 触するものではないことになる。
b憲法三二条と八二条を結び付けて,三二条にいう「裁判」とは八二条にいう公開・対審・判決の訴訟手続が要求される「裁判」と同一であるとする見解。そして,この見解は憲法三二条及び八二条にいう 「裁判」とは「性質上純然たる訴訟事件につき,当事者の意思いかんに拘らず終局的に事実を確定し当 事者の主張する権利義務の存否を確定するような裁判」をいうとしている(最決昭和 35・7・6)。したがって,憲法八二条の公開・対審・判決による訴訟手続が要求されるのは,右 の「性質上純然たる訴訟事件」についてのみであることになる。b説が通説的な見解であり,判例でも ある。この見解によれば,「性質上非訟事件」で実体的な権利義務を確定することを目的とせず,ある いは,権利義務について審理判断することがあっても,その判断が終局的ではなく,訴訟手続でその権 利義務の存否を争いうる途があるときには,公開法廷における対審及び判決による必要はないというこ とになる。この立場にたって,最高裁判所は,夫婦間の協力扶助に関する処分の審判(家事審判法九条一 項乙類一号)につき(最決昭和 40・6・30 ),婚姻費用の分担に関する処分の 審判(同三号)につき(最決昭和 40・6・30 ),遺産の分割に関する処分の審判 (同一〇号)につき(最決昭和 41・3・2 ),裁判所が後見的立場から合目的的に裁 量権を行使して形成する「本質的に非訟事件の裁判」であるとして,右の家事審判はいずれも憲法三二条,八二条に抵触するものではないとしている。
2しかし,右のb説に対しては,「性質上純然たる訴訟事件」と「性質上非訟事件」との境界が明確を 欠かないか,また,審判で権利義務の具体的内容を定めながら,訴訟でその前提たる権利義務自体を争 いうるというのでは,家庭裁判所の存在意義が失われてしまうことにならないかなどの批判が加えられ ている。
3そこで,近時,右のa説とb説とを折衷する見解が有力になっており,以下のように説いている。 社会関係の複雑化した現代社会では,公開・対審・判決という近代法の訴訟原理をそのまま貫くこと がかえって公正な裁判の要請に反することになる場合も有り得るのであって,例えば,公開の法廷で処 理することがかえってプライバシーの侵害となるような家事事件のような場合には,公開原則を排除し て非訟手続で扱うことが正当化されると考えるべきである。すなわち,右の近代法の訴訟原理の憲法上 の意義を十分配慮した上で(近代法の訴訟原理に対する修正は当該事件の特殊性による必要最小限度のものでなければならない),公開・対審に親しまない紛争については,合理的な範囲内で訴訟手続からの 逸脱が許容されないわけではないのである。そして,当該紛争が合理的なものとして訴訟手続からの逸 脱が許容された以上,非訟手続によって権利義務自体の確定をすることもできるのである(したがって, この見解によれば,家事審判についても権利義務自体の確定を含ませることもできることになる)。 この見解によれば,憲法三二条と八二条の関係については,三二条と八二条は「性質上純然たる訴訟 事件」だけを対象としているとみるべきではなく,三二条はひろく国民に裁判所で裁判(訴訟手続による ものも非訟手続によるものも含めて)を受ける権利を保障し,これに対して,八二条は「性質上純然たる 訴訟事件」について公開・対審・判決の原則を保障するが,しかし,三二条も八二条を理念的に前提と し,三二条の「裁判」の原理としては八二条の近代法の訴訟原理がつねに指導原理として働く関係にあ るとみることになる。
4右 3 の見解によれば,家事審判については,右のとおり家事事件を非訟手続に付する合理性があるこ とから憲法三二条,八二条に抵触しないことになる。 これに対し,非訟事件手続法による過料の裁判については,最高裁判所は,過料を科す作用はその実 質において一種の行政処分の性質を有し,裁判所がこれを科す場合でも,純然たる訴訟事件としての性 質の認められる刑事制裁を科する作用とは異なり,公開法廷における対審と判決によるを要しないとし ているが(最決昭和 41・12・27 ),右3の見解によれば,過料を科する 手続と過料の決定に対する不服申立ての手続とを区別し,右の不服申立ての手続は,過料を科せられた 者がその根拠となる実体規定の解釈適用を争い,自己の権利,利益に対する侵害の救済を求めるための ものであって,正に公開の法廷で国民の監視のもとになされるべきものであって,公開を認めない合理 的根拠は見出し得ず,結局,過料の決定に対する不服申立ての手続を過料を科する手続と一体として非 訟手続によらしめている非訟事件手続法は,憲法三二条,八二条に反すると解すべきことになる。

 

四 まとめ

なお,裁判を受ける権利は,出訴期間の制限に関連しても問題となるが,最高裁判所は,「その期間 が著しく不合理で実質上裁判の拒否と認められるような場合でない限り憲法三二条に違反するというこ とはできない」としている(最判昭和 24・5・18 )。