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窃盗罪における実行の着手とは?わかりやすく解説

(一) 犯罪の実行着手の概念は,犯罪遂行が結果を惹起することなく終了した場合,未遂罪として処罰しうるかの判断基準として機能することになる。

犯罪者に対する処罰は,国家の刑罰権の発動である。国家が恣意的に国民に対して刑罰権を行使しうるとすれば,国民の権利が不当に侵害されることも余儀なくなる。

そこで,旧来より,刑罰権の行使については,成文法により,罰すべき行為を国民に明らかにする,罪刑法定主義がとられている。

これを受けて,憲法は,三一条において適正手続の原則を明らかにし,三九条において事後法による処罰を禁止して,間接的に罪刑法定主義を宣明している。 そこで,法は処罰すべき行為について,手段,方法,行為の態様,結果などの特徴を明示して,類別化している。法が明示したこのような犯罪類型は,規範的見地から判定された,社会的有害性を備えた, 実質的違法な行為及び結果である。

この類型化された行為及び結果を構成要件という。構成要件は,行為の違法性すなわち行為無価値と,結果の違法性すなわち結果無価値に支えられた,行為規範ということができる。 従って,誰しも構成要件に抵触する行為に及ばない限り,処罰されることはない。

これが罪刑法定主義の要請である。内心の意図や,構成要件の充足を意欲しながらも,それまでに至らない行為は処罰されることはないのである。


(二) 犯罪を実質的に考察するについて,古くから,犯罪の害悪性,行為の不当性といった客観的側面を重視する客観説の立場と,犯人の意思,危険性といった主観的側面を重視する主観説の立場とが対立している。

主観説は,極端な立場をとると,犯罪者の内心の意思にまで可罰性の根拠を求めうることになる。

しかしながら,近代法の理念から現れた構成要件の機能よりするならば,このような極端な主観説の立場を採用することができないのは明らかである。

今日唱えられている主観説は,構成要件理論を一応承認し,構成要件該当行為についてのみ可罰性を認めるが,実質的処罰対象は犯人の危険性にあるのであり,構成要件に該当する行為は犯人の主観的要素の徴表であると主張している。

これに反し,客観説は, 構成要件の定型性になじむ考え方といわなければならない。現在の学説の多数は客観説を支持しており, 実務の大勢も客観説により導かれてきたものといえよう。


(三) 構成要件該当行為をもって,可罰性の根拠とするのであれば,構成要件の一部を充足する行為がなされれば,予想する結果が発生するに至らなくとも,処罪が可能となる。これを未遂という。

しかし,法は個別的犯罪類型について,別異に未遂を処罰する旨定めている。その意味から,構成要件の一部充足をもって,処罰可能性を肯定するのは,正しくないかもしれない。むしろ,未遂も独立した構成要件であり,実害犯の構成要件を,総則規定で,危険犯に修正した新たな構成要件という方が正しい説明といえる。

犯罪の実行に着手して後は,未遂罪として問擬することができる。刑法四三条はこのことを明らかにしている。この,実行の着手をいかに把えるかは,客観説と主観説の対立が反映する。

徹底した主観説の立場からは,犯意の成立をもって実行の着手と考えることはできなくもないかもしれない。しかし, そのような見解が存しないことは,すでに明らかにした。

そこで,主観説の立場は,犯意の確定性にその基準を発見しようとし,犯意が遂行行為によって確定的に認められる時,犯意の取消不可能なような確実性を示す行為のあった時,犯意の飛躍的表動のあった時に実行の着手があったものとしている。

これに対して,客観説は,外形的要素を重視し,結果発生に相当 の危険性のある行為がなされた時,構成要件的行為のうち一部が行われた時に実行の着手があったとし,主観説の立場では,主観的要素を重視するといいながら,遂行行為という概念を導入し,そこに犯意の確定性の基準を求めようとしたところに,すでに破綻があるし,それを避けようとした,犯意の飛躍的表動とする説も明確性に欠けるとして,これを批判している。

確かに,客観説からの指摘には優れたものがある。だが,実害が全く発生していない場合,具体的行為から判断するうえでは,法が故意犯についてのみ未遂を処罰し,故意が目的として行為を支配することで,行為の違法性が根拠づけられるのであるから,行為そのものを主観的意図と区別して独立した判断の対象とすることには困難が伴う。

さらに,行為を第一義的に重視するにしても,未遂犯が危険犯としての要素を多分に含んでいるため,行為の結果に対する危険性をも検討されなければならない。従って,客観説に依拠し,行為の構成要件の部分的充足性を判断することになるが,具体的事案においては,行為の結果に対する危険性と,行為者の主観的要素という,両面からの考察が必要になる。

その意味で, 実害発生が顕著な,これと接着する行為をもって,実行の着手というべきであろう。


(四)このことを,窃盗罪にあてはめてみると,財物について他人の占有を侵奪する行為,或いは,これと接着する行為に至ったとき実行の着手があったということになる。

そして,判例は一般的に,財物について物色をはじめた時をもって,実行の着手があったものとしている。

屋内に侵入し,金品物色のためタンスに近づいていったり(大判昭和9年1月19 日),室内を物色すべく,置かれている物品を懐中電灯で照らしたり(最決昭和 40 年3月9日)することをもって実行の着手と把えればよいことになる。また,すりについては,金品を窃取する目的で,ポケットの外側を触れる行為をもって,実行の着手と考えることができる(最決昭和 29 年5月6日)。

これらについては,学説上どのような立場をとっても,おそらく異論はないと思われる。

もとより,他人の占有を侵奪することに接着する行為とする立場からも,同様である。 もっとも,窃盗の目的で住居に侵入した場合,住居侵入行為をもって,窃盗の実行着手であるとする考え方がある。

この立場では,住居侵入と窃盗とが社会的に包括して評価されるべきものであり,住居侵入は,窃盗に吸収されるからであるというのである。

しかし,判例,学説ともに窃盗と住居侵入とは,別個の犯罪類型であることを承認したうえで,これを科刑上一罪として処理しているのであるから,外形的要素を重視するならば,住居侵入をもって,別の犯罪形式である窃盗の実行着手があったとすることには疑問があるといわなければならない。

しかし,住居侵入そのものが,窃盗に接着する物色行為とも評価しうる場合には,実行の着手を認めてよいように思われる。倉庫や,土蔵に窃盗 目的で侵入したようなとき(名古屋高判昭和 25 年 11 月 14 日)である。