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未必の故意とは?殺人罪を例にわかりやすく解説

刑法は三八条一項本文において「罪を犯す意(=故意)なき行為はこれを罰せず」とし,故意を犯罪成立の基本的要件としている。これは,ある者が違法行為を行ったとしても,その行為について行為者を非難することができなければ刑罰を科することはできない,という責任主義の要請に基づくものである。

責任主義

ここでいう「非難」とは道義的非難であり,具体的には次のようなものと説明されている。すなわち, 自らの行為が違法結果を引き起こすことを認識した時,通常の是非弁識能力をそなえた人であれば,自分のしようとしていることが法律上許されないものである,との意識が自己の内に喚起される。
したがって,このような場面には,違法行為を避けるよう良心の抑止力の生ずることが期待されるのである。 そして,それにもかかわらず,その良心の抑止力をあえて押し切ったか,あるいは良心の抑止力が喚起されないまま悪に踏み切った時に,行為者に対して非難を及ぼすことができる。

刑罰は,違法行為をなした者に苦痛を与えることによって,人間の道義心を緊張させ,もって法秩序を維持する作用を営んでいる。
しかしながら,非難に値しないものまで刑罰の対象とすることは,道義的倫理的にみて妥当でないのみならず,一般人に対する作用という観点からみても,いたずらに法の不合理性,過酷性を意識させるだけで,かえって遵法精神を鈍摩させる恐れさえある。

そこで,刑罰権の適正な行使という観点から,上記のような責任主義が要求されることになる。
このように,故意とは,「犯罪事実の認識」を意味し,刑法上,行為に対する非難の基礎となるものであるが,その具体的内容については基本的に二つの立場が対立している。
一つの考え方は,故意の成立には結果惹起の意欲が必要であるとする説(意思説)であり,もう一つの考え方は,結果発生の認識で足りるとする説(表象説)である。

故意

意思説

殺人罪を例にとって説明すると
ある者が,短刀で相手方の肩部を深く突き刺し,死亡させたという場合,意思説によれば, 行為者が相手方の死を意欲して行為に及んだ場合には殺人の故意責任を認めるが,単に,相手方が死ぬかも知れない,ということを認識していただけでは,故意責任を認めるには足りない,ということになる。

 

表象説

これに対し,表象説によればいずれの場合でも故意責任が認められる。
この,両説の違いが生ずる部分,すなわち,「意欲していない違法結果発生の可能性の認識」未必の故意である。
前記のとおり,故意は「意識して良心の抑止力(これを「反対動機」という。)に反抗して行為に及んだ」 ことへの非難の基礎をなすものであり,行為者が違法結果を意欲して当該行為に及んだ場合には,まさに,反対動機を意識し,これに逆らって違法行為に及んだのだから,右の非難が可能なことは明らかである。
これに対し,未必の故意の場合には,反対動機の発生がそれほどまでに明確であるとはいい難い。 そこで,未必の故意の場合にも故意責任を認めることができるのかが問題となる。
しかしながら,未必の故意がある場合にも,ある行為をすれば違法結果が発生するかもしれないと認識している以上は,結果を意欲した場合と同様の反対動機の発生が期待できるはずである。
前記の例でいえば,肩部に深く短刀を突き刺せば相手方が死ぬかも知れないと認識する以上は「人を殺すようなことをしてはいけない。」 という反対動機が働くことが期待できるのである。

故意責任の検討

したがって,結果発生の認識がなく,それに対する反対動機の形成も期待できない場合に比べれば,反対動機の形成が期待できるという点で,未必の故意は通常の故意と同等に評価できるといえる。そうだとすれば,未必の故意がある場合には,結果発生の可能性につき認識がある以上,「人が死ぬかもしれない」ということを認識せずに行為に出た場合に比して,一段と重い法的非難を受けても当然といわざるを得ない。
以上のようなことから,未必の故意は,故意責任を基礎づけるに足るものとして,学説判例上評価されている。

認識ある過失の検討

以上は,故意責任の方向からの未必の故意の検討であるが,未必の故意の範囲を画するためには,過失の方向からの検討も不可欠である。
過失の中には「認識ある過失」という類型が存在する。これは, 結果発生の可能性を一応認識したものの,状況判断を誤り,あるいは自己の技量を過信して,当該行為に関する限り結果発生を避け得ると判断して行為に及んだ場合を指す。

具体例でいえば,自動車を運転して歩行者のそばをすりぬけようとしたところ,これを轢き殺してしまったという事例において,運転者が「轢き殺しては大変だが,運転には自信があるから絶対に大丈夫だ。」と思っていたような場合が,この「認識ある過失」に該当する。前記の表象説をそのまま当てはめれば,このような認識ある過失も,結果発生の可能性を認識していた以上,未必の故意に含まれることになり,運転者には殺人の故意責任が問われることになる。

そこで,未必の故意と認識ある過失とを区別することが必要となってくる。 この区別については,二つの説が対立している。
結果発生の可能性が相当高度のものとして認識され ていたか否かによって区別する説(蓋然性説)と,行為者が結果発生の可能性を認識した上に,さらにそ の結果発生を「認容」したか否かによって区別する説(認容説)である(蓋然性説は表象説を,認容説は意思説をそれぞれ修正したものであるといわれている)。
前の例でいえば,蓋然性説に従えば,運転者が相当高度な可能性があると判断していた場合には故意責任を認め,可能性が低いと判断していた場合には故意を否定することになる。
これに対し,認容説によれば,運転者が,歩行者を轢き殺すことを認容していた場合に故意を認め,認容していない場合には故意を否定する,ということになる。したがって,蓋然性説に立つと,たとえ運転者が結果の発生を認容し,あるいは積極的ないし消極的に意欲していたとしても,運転者が結果発生の可能性は低いと判断していた場合には故意の責任を問うことができなくなってしまう。
そこで,現在では認容説が通説となっており,判例も認容説にしたがっていると理解されている。