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未必の故意とは?現役弁護士がわかりやすく解説!【刑法38条】

刑法38条では、故意と未必の故意が犯罪成立の要件とされていますが、その違いと判断基準はご存知でしょうか? この記事では、故意と未必の故意の定義や区別の方法、判例や学説の見解などを詳しく解説します。 刑法の基礎知識として、ぜひご覧ください。

故意とは何か? 刑法38条の規定と意義

刑法38条1項本文には、「罪を犯す意なき行為はこれを罰せず」とあります。これは、故意を犯罪成立の基本的要件としていることを示しています。故意とは、簡単に言えば、「犯罪事実の認識」を意味します。

では、なぜ故意が必要なのでしょうか? それは、刑罰は、行為者に対する非難の表明であり、その非難が正当化されるためには、行為者が自分の行為について責任を負うことができる状態にあったことが必要だからです。このような考え方を「責任主義」と呼びます。

責任主義に基づくと、ある者が違法行為を行ったとしても、その行為について行為者が何も知らなかったり、理解できなかったりした場合には、行為者を非難することはできません。そのような場合には、故意がないと判断されます。

一方、行為者が自分の行為が違法結果を引き起こすことを認識した上で、それを意欲したり、あるいは容認したりした場合には、行為者に対する非難が可能です。そのような場合には、故意があると判断されます。

故意の内容について対立する二つの説:意思説と表象説

故意とは、「犯罪事実の認識」を意味すると言いましたが、その具体的内容については、基本的に二つの立場が対立しています。一つは、故意の成立には結果惹起の意欲が必要であるとする説で、これを「意思説」と呼びます。もう一つは、結果発生の認識で足りるとする説で、これを「表象説」と呼びます。

これらの違いを殺人罪を例にとって説明しましょう。ある者が、短刀で相手方の肩部を深く突き刺し、死亡させたという場合を考えます。この場合、意思説によれば、行為者が相手方の死を意欲して行為に及んだ場合には殺人の故意責任を認めますが、単に相手方が死ぬかもしれないということを認識していただけでは故意責任を認めるには足りません。これに対し、表象説によれば、いずれの場合でも故意責任が認められます。

未必の故意とは何か? 故意と過失の境界

両説の違いが生じる部分、すなわち、「意欲していない違法結果発生の可能性の認識」が「未必の故意」です。未必の故意とは、結果発生の可能性を認識しながらも、それを容認して行為に及んだ場合に認められる故意の一種です。

前述のとおり、故意は「反対動機」という良心の抑止力に反抗して行為に及んだことへの非難の基礎をなすものです。行為者が違法結果を意欲して当該行為に及んだ場合には、まさに反対動機を意識し、これに逆らって違法行為に及んだのですから、右の非難が可能なことは明らかです。

これに対し、未必の故意の場合には、反対動機の発生がそれほどまでに明確であるとは言い難いです。そこで、未必の故意の場合にも故意責任を認めることができるのかが問題となります。

しかしながら、未必の故意がある場合にも、ある行為をすれば違法結果が発生するかもしれないと認識している以上は、結果を意欲した場合と同様の反対動機の発生が期待できるはずです。前記の例でいえば、肩部に深く短刀を突き刺せば相手方が死ぬかもしれないと認識する以上は、「人を殺すようなことをしてはいけない」という反対動機が働くことが期待できるのです。したがって、結果発生の認識がなく、それに対する反対動機の形成も期待できない場合に比べれば、反対動機の形成が期待できるという点で、未必の故意は通常の故意と同等に評価できると言えます。そうだとすれば、未必の故意がある場合には、結果発生の可能性について認識がある以上、「人が死ぬかもしれない」ということを認識せずに行為に出た場合に比して、一段と重い法的非難を受けても当然と言わざるを得ません。

以上のようなことから、未必の故意は、故意責任を基礎づけるに足るものとして、学説判例上評価されています。

未必の故意と認識ある過失とを区別する二つの説:蓋然性説と認容説

以上は、故意責任の方向からの未必の故意の検討でしたが、未必の故意の範囲を画するためには、過失の方向からの検討も不可欠です。

過失の中には「認識ある過失」という類型が存在します。これは、結果発生の可能性を一応認識したものの、状況判断を誤り、あるいは自己の技量を過信して、当該行為に関する限り結果発生を避け得ると判断して行為に及んだ場合を指します。

具体例でいえば、自動車を運転して歩行者のそばをすりぬけようとしたところ、これを轢き殺してしまったという事例において、運転者が「轢き殺しては大変だが、運転には自信があるから絶対に大丈夫だ」と思っていたような場合が、この「認識ある過失」に該当します。前記の表象説をそのまま当てはめれば、このような認識ある過失も、結果発生の可能性を認識していた以上、未必の故意に含まれることになり、運転者には殺人の故意責任が問われることになります。

そこで、未必の故意と認識ある過失とを区別することが必要になってきます。この区別については、二つの説が対立しています。結果発生の可能性が相当高度のものとして認識されていたか否かによって区別する説(蓋然性説)と、行為者が結果発生の可能性を認識した上に、さらにその結果発生を「認容」したか否かによって区別する説(認容説)です(蓋然性説は表象説を、認容説は意思説をそれぞれ修正したものだと言われています)。

前の例でいえば、蓋然性説に従えば、運転者が相当高度な可能性があると判断していた場合には故意責任を認め、可能性が低いと判断していた場合には故意を否定することになります。これに対し、認容説によれば、運転者が、歩行者を轢き殺すことを認容していた場合に故意を認め、認容していない場合には故意を否定するということになります。したがって、蓋然性説に立つと、たとえ運転者が結果の発生を認容し、あるいは積極的ないし消極的に意欲していたとしても、運転者が結果発生の可能性は低いと判断していた場合には故意の責任を問うことができなくなってしまいます。そこで、現在では認容説が通説となっており、判例も認容説にしたがっていると理解されています。

まとめ

この記事では、故意と未必の故意の違いと判断基準についてわかりやすく解説しました。故意と未必の故意は、刑法38条に基づく責任主義の観点から重要な概念です。刑法の基礎知識として、ぜひ覚えておいてください。

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