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主要事実とは?わかりやすく解説【民事執行法】


民事訴訟法一八六条は,裁判所が判決をするについて,当事者の申立てた事項に限定される旨定めて いる。つまり,裁判所が判決の基礎とする事実は,専ら当事者の弁論から採用されることになる。この ことを裏から言うならば,訴訟資料の提出を当事者の権能と責任に委ねているということになる。これ を弁論主義という。
学説には,弁論主義の根拠について,私益に関する紛争である民事訴訟においては, 当事者の争わない事実や,当事者の主張しない事実については,裁判所は格別判断をする必要がなく, 裁判所は,当事者が自主的に処理しえない部分についてのみ判断すればよいからだとして,民事訴訟の 本来的性格から導かれると解する立場(兼子一)と,民事訴訟においては,訴訟資料の蒐集を全面的に裁 判所が負うことは不可能であって,当事者の利己心を利用して訴訟資料の提出を求めることによって真実が発見されるとして,合目的的,訴訟政策的考慮から導かれるとする立場(三ケ月章)がある。後者 の立場は,民事訴訟においても,裁判所による後見的介入がある程度正当化されるべきだとする考察を 背景としているのであるが,弁論主義と対立する職権探知主義との峻別が明確になされないうらみがあ るとして,これを批判する立場(新堂幸司)もある。
いずれにしても,裁判所は,当事者が主張せず,弁論に現われなかった事実をもって判断の基礎とす ることはできなくなるし,当事者は,主張する事実を弁論に現出することが必要となるわけであるが, 当事者は法律効果の存否をめぐって争っているわけであるから,関連する法律効果について定める法規 の構成要件にあたる事実を弁論に現出すれば足りることになる。このような事実を主要事実という。そ して,主要事実の存在を間接的に推認する事実を間接事実という。間接事実は,それが認められたから といって,直接法律効果を左右するものではなく,主要事実の認定を支える事実にすぎないのであるか ら,自由心証主義の場面で現われることになる。
従って,当事者は主要事実を弁論で陳述し現出するこ とが要求されるわけであり,有利な主要事実を主張しない限り,その事実はなかったものとして扱われ ることになる。この不利益を主張責任という。主張責任は主要事実について問題となるのである。



主要事実は,法律効果と直接結び付く事実として,弁論主義が妥当し,主張責任が主要事実について のみ認められることから,通説は,主要事実を,権利の発生消滅に直接必要な要件としての事実である と解している。
これに対して,このような形式定義では,主要事実と間接事実を区別する指針にはなら ないとする批判がある(新堂幸司)。この見解は,法律効果の要件として,法規が過失とか正当事由など として定めている場合に,どの程度に抽象化された事実をもって主要事実となるのか,通説からは不明 であるというのである。そして,主要事実は,裁判所が審理の目標としうる程に具体化し,当事者も防 御活動を尽くせるように具体化した事実であることを要するとしながらも,余りにも具体化した事実を もって,主要事実とするならば,その立証が困難になり,裁判所は主張された主要事実に拘束されるに もかかわらず,それとは異なった別の心証を得た場合などには,不都合な結果になるとして,主要事実 は,審理や当事者の攻撃,防御の観点をも加味して,帰納的に決せられるべきであるとするのである。
この批判は,過失とか正当事由といった抽象的な法律要件は,法律効果を発生させる基礎となるべき事 実をもって法律要件としているわけではなく,事実から導かれる法的評価をもって法律要件としている ことからして,そのような抽象的な法的評価を弁論に現出してみても,審理や反対当事者の防御にとっ て意味をなさないことからも根拠付けられている。正当な指摘であるというべきである。
しかし,この ような批判も,主要事実を法律効果を直接に基礎付ける事実であるとすること自体を争っているわけで はなく,その具体的な判定における新たな指針を提唱しているにすぎないものである。そして,主要事 実が,法律効果を直接に基礎付ける事実であるとするならば,それは原則として,法律効果を定める法 規の構成要件にあたる事実であるということができる。問題は,どのような事実が,構成要件にあたる 事実かにあるわけである。



さらに,弁論主義の理念からすれば,当事者に争いのない事実は,すでに当事者間で自主的に解決さ れているとか,当事者が争わない以上これを当事者の責任のもとに真実として扱ってもさしつかえない と考えられることから,民事訴訟法二五七条は,当事者が争わず自白した事実は証明を要しないと定め ている。
同条は,当事者の側から定めているが,自白した事実は,裁判所がそれに反する認定をすることができないとして,裁判所をも拘束するものと解されている。さらに,当事者は自白をした以上,そ れに反する事実は主張することができなくなるとも解されている。当事者が自白をしたのち,これを翻 して,審理を混乱させるのは,禁反言の原則から許されないというのである。
ところで,自白の制度が,このように弁論主義の原則から認められるとすれば,少なくとも主要事実 の自白については,証明を要しなくなるとともに,裁判所は自白に拘束されて,それに反する認定はで きなくなり,当事者も自白に反する主張はできなくなるというべきである。
問題は,間接事実についての自白である。まず,当事者は,主要事実を争っていながら,間接事実を 認めて,他の方法で主要事実を崩すことは考えられるのであるから,間接事実について自白がなされた 場合には,証明を要しないと考えてよいと思う(兼子一)。間接事実の自白の,裁判所及び当事者に対す る拘束については,議論がある。判例(最判昭和 31 年5月 25 日,最判昭和 41 年9月 22 日)は,いずれ も拘束力がないとして消極に解するが,学説のなかには,拘束力を認めようとする立場(新堂幸司)があ る。この立場は,間接事実が自白された場合には,裁判所はこれに拘束されるとしても,他の間接事実 から主要事実を否定すればよいのだし,間接事実を自白した場合にも,禁反言の原則が妥当するという のである。
しかし,間接事実は,主要事実の認定を助ける事実であって,その存否の判断は心証形成の 過程にすぎず,心証形成について現行民事訴訟法は一八五条において,自由心証主義をとっているので あるから,間接事実の自白についてまで拘束力を認めるのは疑問であるし,当事者は間接事実を自白し たとはいっても,主要事実については争っているのであるから,禁反言の原則が妥当すると結論付ける ことも困難である。多くの見解(兼子一,三ケ月章)はそう解している。
もっとも,このような考え方に 対しては,間接事実から主要事実への推認の過程や,他の間接事実の認定が許される以上,自由心証主 義は妥当しているのであるし,間接事実の自白について拘束力を認めても,当事者が争わないのである から,その部分の争いは自主的に解決されているのであるし,真実として扱ってもよいというべきであ るという批判も考えられる。いずれにしても,判例,多数説に対するこのような批判は,実務の場面に おいても,参考となることが多いと思われる。