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能力のない人が犯罪を犯した場合、刑事責任は問われない?「不能犯」について現役弁護士が事例問題を解説

甲は,寝たきりのAを殺害しようと企て,金属バットでAの頭部を強打し,頭蓋骨を陥没骨折させた。ところが,Aは,既に病気で死亡してしまっていた。甲の刑事責任について論ぜよ。 

不能犯とは

本問では,いわゆる不能犯の成否が主として問題となる。不能犯とは,犯人が犯罪事実の実現を企図してその実現のための外部的動作をしたが,その行為が結果を発生させる危険性を有しないために不可罰とされる場合である。犯罪的結果の惹起を企図してその実行に着手したが,結果の発生には至らなかった場合,未遂処罰規定が存する限り未遂犯として処罰されることになるが,それは,実行の着手によって結果発生の具体的危険を生ぜしめたことによる。ところが,不能犯の場合には,その行為に結果発生の危険性がなく,およそ実行に着手したとはいえないが故に不可罰とされるのである。 従って,本問では甲の行為にかかる「危険性」があるか否かを検討し,これがあれば殺人未遂,なければ殺人については不能犯となり,後は死体損壊罪の成否が問題となろう。

不能犯と未遂犯の区別の標準

右のように,未遂犯と不能犯との違いは,犯人が犯罪的結果を企図して行った行為につき,結果発生の危険性があるか否かという点にあるわけだが,いかなる場合に「危険性」があるといえるのかという点については未遂犯の処罰根拠ともかかわって種々の見解が対立している。これらは,まず,行為者の主観面の危険性を判断すべきだとする主観説と,行為の客観的危険性を判断すべきだとする客観説に大別され,さらに,危険性判断の基準を何に求めるかで,主観説は純主観説と主観的危険説に,客観説は具体的危険説と客観的危険説に,それぞれ二分されるといえよう。

純主観説 

未遂犯の処罰根拠を行為者の意思の危険性に求めるもので,犯意の現れといえる行為がある以上,すべて未遂になるとする。原則として不能犯を認めない立場といえる。ただ,丑の刻参りのようないわゆる「迷信犯」だけは不可罰とするが,その論拠は必ずしも明確ではない。

主観的危険説(抽象的危険説) 

やはり,未遂犯の処罰根拠を犯人の意思ないし計画内容という主観面の危険性に求めるもので,行為者が行為当時認識していた事情を基礎とし,行為者が予期したとおりに計画が進んだならば,一般人の目から見て結果発生の危険があるか否かを判断し,危険がある時は未遂,ない時は不能犯とする。計画の危険性を一般人を基準として客観的に判断する点においてやや客観説に近づいているといえるが,判断の基礎事情はあくまで行為者の認識したものであるため,その帰結としては,迷信犯につき,一般人から見て危険ではないということで,不可罰性が明確に理由付けられるという程度で,結論的には 1 説 との違いはない。

具体的危険説

行為時に,一般人が認識し得た事情及び行為者が特に認識した事情を基礎とし,一般人を基準に行為の具体的危険性の有無を判断する立場である。行為の客観的危険性を問題とする結果,行為者本人の主観ではなく,一般人の評価を基礎とすることになる。ただし,一般人が知り得ないような事情を特に知っている犯人が,それを利用して犯行に及ぶような場合(例えば,被害者が重度の糖尿病患者である場合に,その事情を知っている被告人が被害者に砂糖を飲ませて殺そうとする場合)に,これを不能犯とするのは不当であるから,行為者が特に認識していた事情も基礎事情に加える。今日の通説的見解といえよう。

客観的危険説(絶対不能・相対不能説)

行為時に客観的に存在した全事情を基礎として,行為を事後的に観察し,その客体または手段の性質からみて結果の発生が絶対的に不能の場合は不能犯であり,特定の状況下において相対的に不能であるにすぎない場合は未遂であるとする立場である。一般人が認識し得るか否かにかかわらず,ともかく行為の際に存在した客観的事情のすべてを基礎事情として,事後的・科学的な立場から行為の危険性を判断するという点において具体的危険説と異なり,より判断の客観性を徹底するものといえよう。

判例

判例は,少なくとも形式上は絶対不能か相対不能かによって,不能犯と未遂犯とを区別している。硫黄の粉末を飲ませて人を殺そうとした事案につき,大審院は,その方法が「絶対的不能」に属するから, 殺人罪としては不能犯である旨判示しているが(大判大六・九・一〇),硫黄を飲ませる行為が一般人には危険感を生ぜしめるであろう点に鑑みれば,右判例は実質的にも絶対不能・相対不能の考え方をとっ たものといえる。しかしながら他方において,懐中物のない者からこれを奪取しようとした事実につき,「通行人が懐中物を所持するが如きことは普通予想しうべき事実」であることを理由に未遂犯の成立を認めた判例(大判大三・七・二四刑録二〇・一五四六)や,下級審においても,本問と同様の死体への殺人の事案につき,「一般人も当時その死亡を知りえなかったであろうこと」を理由として未遂犯の成立 を認めた判例(広島高判昭三六・七・一〇高刑集一四・五・三一〇)があり,これらはむしろ具体的危険説の判断方法に従ったものとみることができよう。

検討

以上の考え方のうちいずれが妥当か。 まず,純主観説及び主観的危険説は,主観主義の刑法理論を基礎とし,未遂犯の処罰根拠を行為者の意思の危険性に求めるその前提において既に採用できない。 では,具体的危険説と客観的危険説のいずれが妥当か。両説の対立は違法性の本質をどう捉えるかという議論と結びつくもので困難な問題である。つまり,違法性の本質を「法秩序の基底となっている社会倫理的な規範に反すること」に求める立場からは,行為の危険性を考えるうえでも,社会の一般人がどう感じるかという観点が用いられるのに対し,これを「法益の侵害ないしその危険」のみに求める立場からは,事後的に判断してみて,法益侵害の結果発生の危険性が客観的に存在しない限り不能犯とすべきだとの考え方に結びつくのである。

事案の検討

本問の事案について,まず,具体的危険説によれば,行為当時,甲はAがまだ生さていると思っているわけだが,その時のAの外貌等諸々の状況からみて,一般人においてもやはりAは生きていると考えるであろう場合には殺人未遂となるが,一般人には死体であることが知り得るのに,何らかの事情で甲のみがAはまだ生きていると勘違いしている場合には殺人につき不能犯となる。他方,客観的危険説によれば,行為時に既にAは死んでいたという事後に判明した事情に基づき,客観的に判断することになるから,結果の発生は絶対不可能であり,殺人につき不能犯となる。 次に,殺人につき不能犯とされた場合,甲の行為は客観的には死体損壊罪の実行行為にあたるところから,その罪責が問題となるが,この場合,甲の予見した事実(殺人)と発生した結果(死体損壊)とのくい違いが,異なる構成要件にまたがることになり(抽象的事実の錯誤),しかも両構成要件間には同質性が認められないから,結局,事実の錯誤につき,いわゆる抽象的符合説の立場に立たない限り,故意が否定され死体損壊罪は成立しないことになる。事実の錯誤の場合に故意の成否を定める基準に関しては, 具体的符合説,法定的符合説,抽象的符合説の対立があり,各説の詳細は各人の検討に委ねるが,判例・ 通説は法定的符合説であり,これに従えば,本問の場合は無罪となる。

 

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