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基本的人権と公共の福祉との関係とは?わかりやすく解説

問題の所在


憲法は,一二条,一三条で,公共の福祉によって人権を制約しうるかのような文言の条文をおき,さらに,二二条,二九条にも公共の福祉という言葉を使っている。そこで,ここにいう「公共の福祉」の意味は何か,一二条,一三条と二二条,二九条の公共の福祉の関係はどうなるのか,近時唱えられている二重の基準論との関係などが問題となる。


人権の制約原理


「公共の福祉」の意味,ひいては,人権の制約原理は何かという点については,次の二つの見解がある。
第一説は,基本的人権は「公共の福祉」に反しない限り保障されるものであり,「公共の福祉」を基 本的人権の一般的制約原理であるとする説である(この説によれば,二二条,二九条の公共の福祉の再言は無意味ということになる。)。
第二説は,基本的人権は,「公共の福祉」によっては制約されないとする見解である。
両説は,表面上は全く反対のことを言っているが,実際上の差異は大きくない。前説も,公共の福祉さえあれば,当然に人権が制約されると解するものではなく,基本的人権の保障をうたった現憲法下では,その制約は最小限度にするべきことになる。
また後説も,人権の制約が一切許されないとするものではなく,内在的な制約には服する(つまり,人権相互間の矛盾,衝突を調整するための制約)と解されている。
学説上は,第二説の方が通説とされ,第一説は法律の留保の範囲内でのみ人権をみとめていた 明治憲法を想起させるとか,公共の福祉というあいまいな概念で安易な人権制約を許すことになるとして批判する。
しかし,つきつめていえば,両説の違いは人権制約の根拠に関する用語の違いにすぎないのではないかと思われる。
第一説によっても,結局,「実質的公平」というあいまいな概念で人権の内在的制約を認めるという意味で第二説と大差ないと思われる。むしろ大切なのは,どのような場合に人権の制約を認めるべきか,内在的制約ないし公共の福祉の具体的内容を設定することだと思われる。では,その具体的内容とは何か。究極的に言うならば,人権制約によって失われる利益と得られる利益の比較考量ということになると思う。
しかし,憲法の比較考量をする場合,通常の民事の比較考量との違いを意識しないで,安易にこれを行うなら,一方で個人の益である人権と,一方で多くの場合多数人の利益である人権制約による利益とが比較考量がされることになり,どうしても,多数人の利益である人権制約による利益の方が重視される傾向にある。
これを,アメリカ法では,アド・ホック・バランシングとして批判される。
つまり,例えば表現の自由の制約を例にとると,この人権を守ることは一見, 個人のみの問題であるかのように見えるが,例えば,その制約によって萎縮的効果を与えて,波及し, 議会制民主政の政治過程に影響を及ぼす場合もあるのである。
してみれば,憲法上の比較考量は,安易に具体的事件の比較考量をするのではなく,より高い視野にたって,各人権の性質に応じ,時には制度全体,憲法秩序,体系をも考慮した,きめ細かな比較考量が必要だということになるであろう。後述する種々の考え方や,近時,憲法訴訟ということで考察の対象となる基準(例えば,精神的自由権に関する L・R・Aの基準等)は,いずれも,右のきめ細かな比較考量をするうえでの道具立てであると言えよう。


二二条,二九条の「公共の福祉」


内在的制約説の中で,二二条,二九条の「公共の福祉」に特別な意味を与え,二二条,二九条の財産権及び社会権については公共の福祉による制約を認め,それ以外の人権については内在的制約のみを認めるとする見解が,かつて有力に主張された。
この見解は,憲法自由主義国家観をとりながら,一部,社会国家の原理をとりいれたことに対応して,基本的人権を,社会化された人権とそれ以外の二種類に大別して,人権の制約を構成した見解である。 さらに,近時の有力説は,これを批判する。
つまり,社会権として分類されている権利にも自由権的な側面はあり,また自由権も次第に社会化されつつある(人権概念の相対化)。従って,右の見解のよう に,人権を二つに大別するのは,右の趣旨からして妥当とは言えないとする。
そして,この説によれば, 公共の福祉には,自由国家的公共の福祉と社会国家的公共の福祉があり,前者は,個人の人権の矛盾,衝突を調整することと社会秩序の維持と危険の防止を内容とし,後者は,国家の政策に基いて,個人の生活水準を向上し,福祉を増大させるという積極的な内容をもち,国家の裁量性をより広く認めるものである。
右の見解によれば,各人権には,論理的には右の二つの公共の福祉による制約があるが
(i)精神的自由権は,その優越的な地位から,社会国家的公共の福祉による制約を認めるのは妥当でない。
(ii)経済的自由権については,二つの公共の福祉による制約が認められる。

という帰結が導かれる。


二重の基準


この考え方は,アメリカ法から導入された「二重の基準」理論からも説明される。この理論は,精神的自由権は,議会制民主主義の政治過程(つまり,自由に情報が流通することによって,国民の意思が形成され,その意思が議会を形成し,議会でなされていることが,国民に正しく伝達され,フィード・バッ クされる。)にとって必要不可欠であるから,その規制をするためには経済的自由の規制立法の場合よりも,より厳しい基準が必要であるというものである。