司法試験の勉強会

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表現の自由と検閲について現役弁護士がわかりやすく解説

表現の自由の意義・内容

表現の自由とは,字義どおりに解すれば,人の内心における精神作用を,方法のいかんを問わず,外 部に公表する精神活動の自由であるが,解釈論として,表現の自由の現代的意義をどのように理解すべ きだろうか。憲法が表現の自由を保障した趣旨は何か,また,憲法の保障する各種の人権カタログの中 で,この自由をどのように位置づけるべきかが問題となる。

個人

①憲法は,個人の尊厳を最高の価値としている(一三条,二四条二項)から,まず第一に,精神的・知的 創造物である人間が,国家から干渉されることなく,その精神活動によって自由に人格の形成・発展を 実現できること(個人の自己実現)を保障しなければならない。そのために憲法は,前国家的権利(一一条,九七条)として各種の精神的自由権を保障したが,精神活動はその成果を外部に発表したいという欲求(人 格の対外的実現)を必然的に伴うから,発表の手段が必要になるし,また,自己の知見を広めるためには, 必要な情報を数多くのソースから受領できる環境も存在しなければならない。表現の自由は,これらの 要求を充たすものとして,個人の自己実現の価値にとって不可欠だということができる。

②国政も各個人の自律的意思に基づくものでなければならず(国民の自己統治),主権者たる国 民が世論の力と立法過程を通して自らの体制を定められること(治者と被治者の自同性)を根本的特質と する民主政が,その期待どおりの機能を果たせるような制度を整えなければならない。そのためには, 自由な公開討論の広場が確保され,国民がそこに自由に参加して政治的意思を形成できる環境の存在が 前提となる。かくして,あらゆる表現(とりわけ政治的意見表明)の自由は,民主政の過程を基礎づけそ れを維持していくのに不可欠な機能を営み,国民主権に直結するものということができ,それゆえに表 現の自由は「民主政の生命線」ともいわれるのである。  加えて,現代国家では,資本主義の高度化による矛盾の顕在化に伴い,社会福祉国家の理念が掲げら れ,国家の任務のひとつとして社会的弱者保護のための積極的な行為が求められている。そして,かか る福祉政策の達成には専門的技術的知識と迅速かつ円滑な運営が要求されるため,専門分野ごとに分化 し独任制で機動性を有する行政機関が現実の担い手とされ,その権限が強化された結果,本来は法の執 行機関にすぎない行政府が国家基本政策の形成決定に中心的・決定的役割を営むようになった(行政国家 現象)。その反面,肥大化した行政権のゆき過ぎによる議会主義や権力分立の形骸化,人権侵害の危険も 増大したため,ここに至って,民主的基盤をもつ国会が行政権を抑制すること(国会の内閣に対する民主 的コントロール)の重要性が再認識されており,民主性に不可欠な表現の自由の保障も一層重要性を増し ている。したがって,表現の自由の保障の重点及び現代的意義は,自己統治の価値の実現にとって不可 欠な点に求められるといってもよかろう。

表現の自由の優越的地位

以上①②の不可欠性ゆえに,表現の自由は「ほとんどすべての他の形式の自由の母体」(佐藤幸治・ 憲法三五一頁)とされ,人権のカタログにおいて優越的な地位を占めるといわれている。

このように見てくると,国民の政治的意思形成に重要な役割を果たす政治・社会・経済的事象に関す る情報の流通を確保することも,民主政の運営に不可欠であって,当然,表現の自由の範疇に含めるべ きことがわかる。したがって,事実の報道の自由もこれに含まれると解すべきである(最大決昭和四四・ 一一・二六・刑事最判解説 42 事件も同旨)。  更に,情報を伝達する行為は,情報を受けとめる行為があってはじめて有意的になるものだが,情報 が国家権力やマスメディアへ集中し,情報の送り手と受け手が分離している現代社会では,国家機密な どに見られる情報の機密化やマスメディア等による情報の自主規制等が表現の自由に対する大きな脅威 となっている。そこで,国民の政治過程への参加を確保し,憲法が表現の自由を保障した前記①②の趣旨を達成するためには,表現の自由の観念を受け手の側から再構成する必要があり(表現の自由の現 代的変容),国民が情報を受容する自由(知る権利)も十分に保障しなければならないというべきである。 かくして,表現の自由とは,単なる精神作用の表出活動にとどまらず,「思想,信条,意見,知識,事 実,感情など個人の精神活動に関わる一切のものの伝達に関する活動の自由」と解するのが相当である。

表現の自由に対する制約

しかし,人権観念も,当然のことながら人間の共同の社会生活を前提としている。そして,個人が社 会内で共同生活を営む以上,他者の人権や他の社会公共的利益との矛盾・衝突を免れることはできない ので,その場合には制約を受けざるをえず,表現の自由もその例外ではない(かかる制約のことを,人権 保障そのものに不可避的に内在している制約という意味で「内在的制約」といい,一二条・一三条の「公 共の福祉」という概念を,対立する基本的人権間の矛盾・衝突を調整するための原理と捉えるのが普通 である。
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 そこで問題となるのは,いかなる場合にどの程度の制約が許されるか,である。憲法は法律等の憲法 適合性の最終的判断権を裁判所に与えているので(八一条),裁判の場で,いかなる基準を適用して人権 制約立法の合憲性を判断すべきかが重要になる。  この点,国会は国民の意思が直接反映する国家機関であり(一五条一項,四三条一項),立法の資料収 集能力においても他の二権に勝っている(六二条,八六条,九一条等)から,原則として国会の意思を尊 重すべきであって,国会の立法は合憲性の推定を受け,違憲と主張する側で明白に不合理であることを 立証しない限り合憲と解すべきようにも思える(明白性の原則)。

 しかし,既に述べたとおり,表現の自由は自己実現・自己統治の価値に不可欠であるうえ,ひとた び表現の自由が侵害された場合には,自由な討議によって成立する民主政の過程そのものが傷つけられ, もはや「投票箱と世論という民主政の過程」に訴えて立法府の過誤を是正する途は閉ざされてしまう(こ れに対し,社会経済政策の実施の一手段として政策的見地からなされた経済的自由に対する規制立法が 不当であっても,それは民主政の機構を通じて排除することができる。)。  

したがって,表現の自由に対する規制立法の合憲性判定基準は,経済的自由の場合より厳格であり,「当該規制より緩やかな規制では立法目的を十分に達成することができないと認められること」が要求 され(厳格な合理性の基準),合憲性の推定は排除され,合憲と主張するものが右の厳格な基準を充たす ことを挙証しなければ違憲とされると解するのが相当である(二重の基準論。最大判昭和四七・一一・二 二刑事最判解説 28 事件も同旨)。
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 そうだとすれば「表現行為がなされるのに先立ち公権力が何らかの方法でそれを規制すること」(事前 抑制)は,原則として許されず,事後の制裁ではどうしても規制の目的を達成できない場合に限って例外 的に認められると解すべきである。なぜなら,事前抑制は,事後制裁に比べ,情報が思想の市場に到達 する途を閉ざし又はその到達を遅らせてその意義を失わせるものであって,実際上の抑止効果が大きい うえ,規制そのものが予測に基づくため広範囲に及びやすく,濫用の虞も強いからである。また,手続 上の保障において伝統的な刑事手続に見られるような強い保障がないからである。

検閲の概念

憲法は更に,二一条二項において,検閲の禁止を規定している。では,この規定の趣旨を どう理解すべきか。また,検閲とは何だろうか(事前抑制と同義か)。  ここで注意すべきは,検閲禁止の趣旨の捉え方と検閲の概念の捉え方とが密接に関係していることで ある。すなわち,検閲の禁止を絶対的なものと解する場合には,ある制度が検閲に該当するとされれば それは直ちに許されないという強い効果を伴うことになるが,憲法の人権規定の解釈にあたっては,多 種多様な諸利益の比較較量を要求される場合が多く,安易に解釈過程から利益衡量を排除してしまうの は適当でないため,かかる立場からは,自ずと検閲の概念を狭く観念することになる。これに対し,検 閲禁止を絶対的禁止ではないと解する場合は,たとえある制度が検閲に当てはまっても,当該制度が許 されないものとされるかどうかは,最終的には,それが公共の福祉によって容認される制約か否か(検閲 が例外的に許される場合の条件は何か,当該制度はその条件を充たしているか)という観点から決せられ るため,検閲の概念を多少緩やかに定めても不都合はないということになる。
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(一)  そこでまず,検閲の禁止を絶対的なものとみるべきか,それとも,公共の福祉による例外を許容する 趣旨と解すべきかが問題となる。  仮に,後者だとすると,同条項は,表現の自由に対する事前抑制は原則として禁止されるが,さりと て表現の自由といえども絶対無制約ではなく,公共の福祉に基づく例外のひとつとして検閲による制約 を受ける可能性もありうるということを,単に重ねて確認したにすぎない規定になってしまう。これで は,わざわざ二一条一項に表現の自由を保障する一般的な規定を置きながら,別に検閲禁止についての 特別規定として二項を設けた趣旨の大半が失われてしまうだろう。そうだとすれば,二一条二項は,憲 法制定者が多くの利益を較量した結果,拷問の禁止(三六条)や事後法の禁止(三九条)と同様に,人権に とって最も危険なもののひとつとして検閲を掲げ,その絶対的禁止を憲法規範としたものとみるのが相 当である。  また,二一条二項は,その沿革上,諸外国や我が国の旧憲法下において,表現を事前に規制する検閲 により表現の自由が著しく抑圧された歴史的経験を踏まえて設けられたものと見られる。その意味でも, 表現の自由に対する最も強力で厳しい抑圧手段となる事前の規制を検閲と呼び,これについてはとくに 公共の福祉による例外をも許さない旨明らかにし,例外を許容することによってそこから禁止が緩めら れ,再び表現の自由が封殺される危険を排除しようとしたものと解するのが妥当である。  したがって,二一条二項は,検閲の絶対的禁止を宣言した趣旨と解すべきである。
(二)  そうだとすると,検閲とは,事前規制の中でもとくに表現の自由に対する抑止的効果が強く,絶対的 に禁止すべきものを指すと解すべきことになる。ただ,そうなると,検閲の要件を過不足なく掲げて一 義的に定義するのは極めて困難になるが,一応は,1主体,2対象,3目的,4範囲,5内容(手段,方法),6効果の客観点から,「1行政権が主体となって,2思想内容等の表現物を対象とし,3その全部 又は一部の発表と禁止を目的として,4対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に,5発表前に その内容を審査したうえ,6不適当と認めるものの発表を禁止することを,その特質として備えるもの」 ということができよう。
 税関検閲を合憲とした最大判昭和五九・一二・一二(民事最判解説 29 事件)の趣旨も,以上のように理 解すべきものと思われる。
(三)  以上に対し,(1)検閲の主体を行政権に限定せず,対象を思想内容のみに絞る見解(宮沢・憲法II三六六 頁),(2)検閲の主体を行政権に限定せず,また,事前=発表前とは考えず,知る権利の観点から,発表後 受領前に審査するものについても実質的に事前検閲と同視しうる重大な影響を表現の自由に与える場合 は検閲にあたるとしたうえで,行政権による検閲は絶対的に禁止され,司法権による検閲には例外が許 容されうるとする見解(芦部信喜『演習憲法』有斐閣一四〇頁。以下「芦部説」という。)などがあるが, 対象を思想内容に限定するのは,前記一 3 で述べた表現の自由の現代的意義に鑑みて狭すぎるし,また, 主体や手段・方法を広く解するのは禁止の絶対性を不明確にするきらいがあるので,いずれにも賛成で きない。
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 かかる立場にたつと,結局,表現の自由に対する制約は,事前の抑制と事後の制裁とに大別でき,事 前の抑制の中には「検閲」と「検閲にあたらない事前抑制」とがあって,ある事前抑制的な規制手段が 検閲にあたるとされれば,それは二一条二項により絶対的に禁止されるのに対し,検閲にあたらないと されれば,更に公共の福祉による必要最小限度の規制として許されるか否か(二一条一項に反しないか) が問題となる。次の四項で,具体的制約が検閲にあたるか否かを検討するが,検閲にあたらないからと いって直ちに当該制約が合憲とされるわけではない。

検閲禁止が問題となるケース

言論・出版の仮処分による事前差止め

司法裁判所が主体であり,主に1の観点から検閲には当たらない。しかし,検閲に近い機能をもつの で,(1)差止めを求める出版物が原則として「公務員又は公職選挙の候補者に対する評価,批判等に関す るもの」ではなく,「その表現内容が真実でないか又は専ら公益を図る目的のものでないことが明白で あって,かつ,被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞がある」という実体的要件と,(2「) 原 則として,口頭弁論又は債務者の審尋を経る」という手続的要件の双方を充たしたときにのみ認められ ると解すべきであろう(最大判昭和六一・六・一一民事最判解説 19 事件,加藤和夫「北方ジャーナル差 止国賠事件最高裁大法廷判決」ジュリスト八六七号五〇頁)。  これに対し,芦部説では,検閲にあたるが,右(1)(2)の要件のもとでは例外的に許されるということ になる。なお,裁判所が主体であっても,口頭弁論も開かず,理由も付さずに表現行為を差し止めるの は実質的には行政処分と解すべきであるとする見解もある(佐藤幸治『憲法II』〔芦部編〕四八七頁)。

教科書検定制度 

教科書として発行しえないにとどまり,出版そのものが禁止されるわけではないので,主に6の観点 から検閲にあたらないと解される。  なお,この制度については,他にも,教育の自由(二六条)及び学問(教授)の自由(二三条)に反しないか, 適正手続の保障(三一条)が及ぶか,といった問題がある。

税関検査(関税定率法)

税関検査は,関税徴収手続の一環としてそれに付随して行われるもので,思想等の規制そのものを目 的とした網羅的な検査ではないし,ある表現物の適法な輸入の途を閉ざすにすぎず,発表の機会を全面 的に奪うものでもない。また,一般に当該表現物は国外においては発表済みのものである。したがって, 主に2346の観点から検閲にはあたらないというべきである。前記最大判昭和五九・一二・一二も, 裁判官の全員一致により税関検査の検閲該当性を否定した。

有害図書類の販売規制(青少年保護条例)

出版物そのものの発売を禁止するわけではなく,出版後に,限られた範囲の受け手への頒布を抑制す るにとどまるから,検閲にはあたらない。ただし,出版後の規制でも検閲にあたる場合があるとする芦 部説では,検閲にあたりうるということになろうか。

集団示威行進の許可制(公安条例)

集団行動の場所,方法などの外形的規制にとどまり,その内容の審査ではないから,主に25の観点 から検閲にあたらないといってよかろう。もっとも,一般的許可制が許されるかどうかは,二一条一項 との関係で問題が多い(最大判昭和二九・一一・二四刑集八・一一・一八六六,最大判昭和三五・七・二 〇刑事最判解説 70 事件,最大判昭和五〇・九・一〇刑事最判解説 17 事件)。

映倫等による自主規制

行政権が主体ではないので,検閲ではない。しかし,芦部説の趣旨を徹底させると,自主規制であっ ても,公権力からのインフォーマルな強い影響を受け,それを実質的に代弁するような形で一定の情報 を市場から排除するような場合には,検閲を構成することもあるということになろう。

その他,虚偽誇大広告の規制(薬事法,宅建業法など

規則制定権とは何か、わかりやすく解説

規則制定権の意義・制度趣旨

現行憲法は,1訴訟に関する手続,2弁護士,3裁判所の内部規律及び4司法事務処理に関する事項 について,最高裁判所に規則制定権を付与し(七七条一項),更に下級裁判所に関する規則の制定権は下 級裁判所に委任することもできるとして(同条三項),司法内部の諸事項について裁判所に自主立法権を 認めた。これは,明治憲法下では存在しなかったものである。

権力分立の見地

 憲法は,基本的人権を永久不可侵のものとして保障し(一一条,九七条),国家権力の集中によって生 ずる権力の濫用から国民の自由権を確保するために,立法・行政・司法の各権力を分離独立させて,そ れぞれ異なる機関に担当せしめ,互いに他を抑制し,均衡を保つようにする制度(三権分立)を採用した (四一条,六五条,七六条一項)。この結果,裁判所が司法権を担当する独立の機関とされたが,司法権 の独立を実効あらしめ,法の支配を実現するためには,個々の裁判官の職権行使の独立の確保(これは裁 判官の身分保障によって担保される。)とともに,その前提として,組織体としての裁判所(司法府)の独 立,すなわち,政治部門(議会や内閣)による干渉を排除し,裁判所が自主的に活動できる環境を確保す ることも不可欠である。規則制定権は,まず第一に,かかる裁判所の自主独立性を確保するための手段 のひとつとして定められたものと解される。

技術的見地

また,裁判の運用という技術的・専門的見地から見ても,裁判の手続的・細目的な事項については, その実際に通じている裁判所自体に実際に適した規律を定めさせるのが適当である。そこで,一定の事 項については裁判所の専門的知識と実際的経験とを尊重すべきものとして規則制定権を設けたと解される。

規則制定権の位置づけ

ところが,憲法は他方で,主権者たる国民の代表者からなる国会を国権の最高機関とし,「唯一の立 法機関」であるとして(四一条),国の立法はすべて国会を通し,国会を中心として行うべきこと(国会中 心立法の原則)と,法律が国会の議決のみで成立すべきこと(国会単独立法の原則)を要請している。
では,この四一条と最高裁の規則制定権とはどのような関係にたつのだろうか。その前提として,「立法」の概念をどう捉えるかが問題となる。  
この点,「立法」とは国民の権利・義務に関する法規範の制定であると狭く解する見解(清宮二〇四頁, 四一六頁)もあるが,国民の生活にかかわる重要なものはすべからく国会の意思で定めるものとしたほう が民主主義の精神に合致し,国会を唯一の立法機関とした趣旨にも沿うと思われる。
しかも,現代では, 福祉国家化に伴って行政権が肥大化した結果,行政組織の活動による人権侵害の危険性が増大している から,国会による国政への民主的コントロールを広く行政組織にまで及ぼす必要があり,そのためにも 立法の概念は広く解するのが適当である。
したがって,四一条の「立法」とは,一般的抽象的法規範を 意味する広い概念であると捉えるべきである。  
そうだとすれば,最高裁による規則制定権の制定も四一条の「立法」に含まれることになり,右規則 制定権は,憲法自らが四一条の国会中心立法の例外として定めたものと位置づけることになる。  
ただし,後述五 1 の佐藤幸治説は,前記34に関する規則制定権は四一条の例外にはあたらないとするようである(佐藤幸治一〇七頁)。

規則制定権の範囲

規則によって定めうる事項(規則所管事項)の範囲は,原則として,前記七七条一項所定の1ないし4 の事項に対して広く及び,逆にそれ以外の事項には及ばない(仮に定めたとしてもその規則は無効である) が,次の点に注意すべきであろう。
(一)  1のうち,裁判所の機構や管轄権は,国家の権力機構の根幹にかかわる問題であり,法律事項と解す べきである(佐藤幸治二二七頁)。また,裁判官の懲戒に関する事項は含まれるが,弾劾裁判は司法裁判 所の行うものではない(七八条,六四条)から,弾劾裁判に関する事項は除かれる。更に,2は弁護士に 関する事項のうち訴訟にかかわる事項のみであり,弁護士の職務・資格要件・身分等については,職業 選択の自由(二二条一項)にかかわる問題でもあるため,法律で定めるべきものと解すべきである。  問題となるのは,1と三一条(適正手続の保障)との関係であり,刑事手続の基本原理・構造や被告人 の重要な利益に関する事項については法律のみが定めうるとする見解もあるが,七七条一項が何らの留 保なしに規則事項を列挙していることから,法律に規定のない限り規則で定めることも可能と解してよ いのではないか(清宮四三七頁,佐藤幸治二二七頁)。なお,判事補の参与を定めた規則に関する最決昭 和五四・六・一三(刑事最判解説 15 事件)参照。
(二)  同条項所定以外の事項であっても,司法権に関する限り,法律の委任がある場合には定めることがで きる(書研の憲法概説・改訂版一五一頁)。なお,規則事項を改めて法律が委任したケースとして最大判 昭和三三・七・一〇(民事最判解説 82 事件)参照。

法律との関係

規則事項を法律で定めることもできるか。  国会が「唯一の立法機関」とされ,立法は法律の形式によるのを原則としていることに鑑み,法律で 定めることも可能と解してよかろう(最判昭和三〇・四・二二刑事最判解説 52 事件。裁判官分限法の合 憲性を前提に判断した最大決昭和二五・六・二四裁判所時報六一号六頁も同旨と思われる)。  ただし,前記二(一)の趣旨を重視し,裁判所の自律権に直接かかわる34については,裁判所の内部 的作業方法及び規律の自主的決定権を確認したものにすぎず,規則だけが定めうる排他的所管事項だと 解する見解もある(佐藤幸治二二七頁)。

規則と法律との効力関係

右の問題を肯定した場合,法律と規則とが競合する所管事項(競合的所管事項)が生ずるため,更に,規則と法律とが矛盾したときにそのいずれを優先すると解すベきか,が問題となる。この点,規則優位 説,同位説(優劣関係はなく,前法・後法の関係で捉えて原則どおり後に制定されたほうが優先すると解 する説),法律優位説が考えられるが,右 1 で規則事項を法律で定めることもできると解したのと同様の 理由から,法律が優先すると解すべきだろう。  なお,最近,両議院の規則制定権(五八条二項)に関しては,議院自律権を重視する立場から,規則優 位説(法律との競合的所管を認めつつ規則が優先適用されるとする説,議院活動に必要な事項を規則の専 属的所管事項とする説など)が有力になっており,今後,最高裁の規則についても同様の議論のなされる 可能性がある。もっとも,たとえ規則優位説にたつとしても,刑事手続の基本原理・構造など国民の権 利・義務に直接かかわる事項については,前記四(一)のとおり,三一条との関係上規則では定めえない とする見解もあるくらいであるから,法律が優先すると解すべきであろう。

手続き,効力

最高裁判所規則は,最高裁の裁判官会議の議によって制定され(裁判所法一二条),官報で公布される。 代表的なものとしては,民事訴訟規則,刑事訴訟規則などがあり,また,近時公布された民事保全法は, 各種申立書の記載事項,審尋調書及び口頭弁論調書の作成及び記載事項などを含む裁判所の内部手続に 関する事項は最高裁判所規則で定めるものとして(同法案八条)規則への広汎な委任を定めている。

最高裁判所規則は,内部事項に限られないから,検察官(七七条二項)その他関係者すべてを拘束する。

適正手続の保障について論ぜよ。

憲法(以下法名略)31条の意義

31条は,「何人も,法律の定める手続によらなければ,その生命若しくは自由を奪はれ,又はその他の刑罰を科せられない。」と規定する。この規定は,人身の自由についての基本原則を定めた規定であり,アメリカ合衆国憲法の人権宣言の一つの柱とも言われる「法の適正な手続」(due process of law)を定める条項(この条項は,いかなる州も,法の適正な手続によらないで,何人からも生命,自由又は財産を奪ってはならないことを規定する。)に由来する。公権力を手続的に拘束し,人権を手続的に保障していこうとする思想は,英米法に特に顕著な特徴であり,手続保障の観点は,人権保障を考える上で重要な視点である。

適正手続の保障内容

31条の規定内容

31条は,法文では,①手続が法律で定められること(手続の法定)を要求するにとどまっているようにも読める。しかし,それだけではなく,②法律で定められた手続が適正でなければならないこと(手続の適正,例えば告知・聴聞の手続),③実体もまた法律で定められなければならないこと(実体の法定,罪刑法定主義),④法律で定められた実体規定も適正でなければならないこと(実体の適正)をも意味すると解するのが通説である。この解釈には有力な異論もあるが,通説の立場は,アメリカの適正手続条項の解釈にも一致し,人権の手続的保障の強化という見地から,ほぼ妥当なものと評されている。

手続の法定

手続の法定とは,刑事手続は,法律によって定めなければならないことをいう(刑事手続法定主義)。31条にいう「法律」は,形式的意味の法律を指す。したがって,刑事手続に関する定めは,原則として,国会によって制定される法律によってしかなし得ない。ただし,77条1項は,「最高裁判所は,訴訟に関する手続,弁護士,裁判所の内部規律及び司法事務処理に関する事項について,規則を定める権限を有する」と規定し,この例外を定めているので,最高裁判所が規則によって刑事訴訟に関する手続を定めることは許される。

手続の適正

手続の適正の具体的な内容については,33条から39条までの規定により具体的に定められている。31条により保障されるべき内容として重要なものが,「告知と聴聞」を受ける権利である。「告知と聴聞」とは,公権力が国民に刑罰その他の不利益を科す場合には,当事者にあらかじめその内容を告知し,当事者に弁解と防御の機会を与えなければならないというものである。

最高裁は,貨物の密輸を企てた被告人が有罪判決を受けた際に,その付加刑として,密輸に係る貨物の没収判決を受けたところ,被告人が,所有者たる第三者に事前に財産権擁護の機会を与えないで貨物を没収することは違憲であると主張した事案において,「第三者の所有物を没収する場合において,その没収に関して当該所有者に対し,何ら告知,弁解,防禦の機会を与えることなく,その所有権を奪うことは,著しく不合理であつて,憲法の容認しないところである」,「関税法118条1項は,同項所定の犯罪に関係ある船舶,貨物等が被告人以外の第三者の所有に属する場合においてもこれを没収する旨規定しながら,その所有者たる第三者に対し,告知,弁解,防禦の機会を与えるべきことを定めておらず,また刑訴法その他の法令においても,何らかかる手続に関する規定を設けていないのである。従って,前記関税法118条1項によって第三者の所有物を没収することは,憲法31条,29条に違反するものと断ぜざるをえない」と判示した(第三者所有物没収事件/最大判昭和37年11月28日刑集16巻11号1593頁)

このように,判例は,告知と聴聞の権利が,刑事手続における適正性の内容をなすことを認めている。なお,この判例は,第三者の権利侵害を援用する違憲の主張に適格性を認めた事例でもある。

実体の法定(罪刑法定主義)

実体の法定とは,罪刑法定主義を意味するが,この点に関しては,以下の事項が問題となる。

政令と刑罰

政令による罰則制定の可否について,判例は,73条6号ただし書が規定する罰則の委任(政令には,特にその法律の委任がある場合を除いては,罰則を設けることができないことを規定する。)について,「実施さるべき基本の法律において特に具体的な委任」がなければならず,それが「広範な概括的な委任」であってはならないとしている(最大判昭和27年12月24日刑集6巻11号1346頁)。

条例と刑罰

条例による罰則制定の可否についても争いがある。判例は,①刑罰は,法律の授権によってそれ以下の法令によって定めることもできると解すべきで、このことは73条6号ただし書によっても明らかであること,②条例は,法律以下の法令といっても,行政府の制定する命令等とは性質を異にし,むしろ国民の公選した議員をもつて組織する国会の議決を経て制定される法律に類するものであることから,条例によって刑罰を定めることも許される場合があり,具体的には,「法律の授権が相当な程度に具体的であり,限定されておればたりると解するのが正当である」としている(最大判昭和37年5月30日刑集16巻5号577頁)。

実体の適正

実体の適正の内容としては,通常,a刑罰規定の明確性,b罪刑の均衡,c刑罰の謙抑主義等が挙げられる。

aについては,どの程度の明確性が要求されているのかが問題となる。この点につき,最高裁は,「ある刑罰法規があいまい不明確のゆえに憲法31条に違反するものと認めるべきかどうかは,通常の判断能力を有する一般人の理解において,具体的場合に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読みとれるかどうかによってこれを決定すべきである。」と判示した(徳島市公安条例事件判決/最大判昭和50年9月10日刑集29巻8号489頁)。

31条と行政手続

問題の所在

31条は,「その他の刑罰を科せられない」という文言からもわかるように,直接には刑事手続についての規定である。しかし,現代では,行政が生活の隅々まで介入し,国民の権利に重大な影響を与えるようになっているため,国民の権利保障のためには,行政権の発動についても,適正な手続によることが要請される。ただ,その根拠条文を31条に求めるべきかについては,説が分かれている。

学説

学説上,一般的には,行政手続にも適正手続の保障を及ぼす必要性がある以上,31条を直接適用し,又は,準用すべきであると解されている(31条適用ないし準用説)。ただし,すべての行政権の発動について例外なく適用されるとは解しておらず,例外があることは承認する。
少数説は,31条の文理を重視し,行政手続には31条が適用されないとする(31条不適用説)。もっとも,この説も,行政手続の適正に対する要請を否定するものではなく,各個別の人権規定,幸福追求権を保障する13条,憲法における法治国原理の手続的理解により,手続の適正が要請されるとする。
実際には,後記の行政手続法の成立によって,告知・聴聞を受ける権利が保障されることになった。

判例

最高裁は,告知聴聞の機会を与えることなく工作物の使用を禁止する処分を定めたいわゆる成田新法が,31条に違反しないかが争われた事案において,「31条の定める法定手続の保障は,直接には刑事手続に関するものであるが,行政手続については,それが刑事手続ではないとの理由のみで,そのすべてが当然に同条による保障の枠外にあると判断することは相当ではない。しかしながら,同条による保障が及ぶと解すべき場合であっても,一般に,行政手続は,刑事手続とその性質においておのずから差異があり,また,行政目的に応じて多種多様であるから,行政処分の相手方に事前の告知,弁解,防御の機会を与えるかどうかは,行政処分により制限を受ける権利利益の内容,性質,制限の程度,行政処分により達成しようとする公益の内容,程度,緊急性等を総合較量して決定されるべきものであって,常に必ずそのような機会を与えることを必要とするものではないと解するのが相当である。」とした(ただし,この事案については,「本法3条1項に基づく工作物使用禁止命令により制限される権利利益の内容,性質は,前記のとおり当該工作物の三態様における使用であり,右命令により達成しようとする公益の内容,程度,緊急性等は,前記のとおり,新空港の設置,管理等の安全という国家的,社会経済的,公益的,人道的見地からその確保が極めて強く要請されているものであって,高度かつ緊急の必要性を有するものであることなどを総合較量すれば,右命令をするに当たり,その相手方に対し事前に告知,弁解,防御の機会を与える旨の規定がなくても,本法3条1項が憲法31条の法意に反するものということはできない」と判示した(成田新法事件/最大判平成4年7月1日民集46巻5号437頁)

行政手続法

平成6年に施行された行政手続法には,行政処分等に関する手続に共通して求められる事項が定められている。不利益処分を行う場合には,原則として,名あて人について意見陳述のための手続(聴聞に限られてはいない。)を執らなければならないとされているが,例外規定も定められている(行政手続法13条)。なお,そもそも,行政手続法の適用が除外される手続も多い(同法3条,4条等)。

補足

その他の条文

35条1項は,「何人も,その住居,書類及び所持品について,侵入,捜索及び押収を受けることのない権利は,第33条の場合を除いては,正当な理由に基いて発せられ,且つ捜索する場所及び押収する物を明示する令状がなければ,侵されない。」と規定し,「住居,書類及び所持品」について,恣意的な「侵入,捜索及び押収」を禁止している。38条1項は,「何人も,自己に不利益な供述を強要されない。」と規定し,不利益な供述を避けた場合にも,処罰その他法律上の不利益を与えることを禁じている。

35条,38条と行政手続の関係について

最高裁は,旧所得税法上の質問検査権(収税廷吏が税務調査に当たり納税義務者等に質問し,帳簿等の物件を検査でき,これを拒否した者には罰則が適用されるという制度)に基づく調査を拒否して起訴された被告人が,質問検査が,令状主義(35条)及び黙秘権の保障(38条)に反すると主張した事案において,「憲法35条1項の規定は,本来,主として刑事責任追及の手続における強制について,それが司法権による事前の抑制の下におかれるべきことを保障した趣旨であるが,当該手続が刑事責任追及を目的とするものでないとの理由のみで,その手続における一切の強制が当然に右規定による保障の枠外にあると判断することは相当ではない」と判示しつつ,質問検査は,①刑事責任の追及を目的とする手続ではないこと,②実質上,刑事責任追及のための資料の取得収集に直接結びつく作用を一般的に有するものではないこと,③強制の態様が,直接的物理的な強制と同視すべき程度にまで達しているものではないこと,④国家財政の基本となる徴税権の適正な運用を確保し,所得税の公平確実な賦課徴収を図るという公益上の目的を実現するために収税官吏による実効性のある検査制度が欠くべからざるものであることから,35条に反しないとした。また,38条による保障は,「純然たる刑事手続においてばかりではなく,それ以外の手続においても,実質上,刑事責任追及のための資料の取得収集に直接結びつく作用を一般的に有する手続には,ひとしく及ぶものと解するのを相当とする」と判示しつつ,質問検査権の上記の特徴に照らして38条には反しない,とした(川崎民商事件/最大判昭和47年11月22日刑集26巻9号554頁)。

【ゼロから始める法学ガチ解説シリーズ】法の下の平等の原則とは?具体例をあげて解説

平等原則の意義憲法14条1項の保証内容

   平等原則とは憲法14条1項によって保障されるものである。

   この条文によって保障される内容には以下のものがある。

平等が求められる法律の在り方

  ① 法適用の平等

     その法律を全ての人に適用するということである(美女やイケメンに刑法を適用しないということはない)。

     これは「法の下に」との文言から明らかである。

   ② 法内容の平等

     法の内容についても平等が要求される。つまり平等の原則にしたがって法律が定められるべきであるとされる。

     明文上は明らかでないが「個人の尊厳」(憲法13条)を実現するという憲法の基本理念から導かれるものである。

平等の意味内容

    考え方としては❶絶対的平等(皆のものを同一に扱う)❷相対的平等(等しいものは等しく等しくないものは等しくなく扱う)の2つがありうる。

    この点は❷相対的平等を意味すると考えることが一般である。

   ⇒その結果「合理的な差別」であれば憲法14条1項に反しないこととなる。

憲法14条1項の列挙事由の意味について

   ア 人種

     皮膚毛髪体型等の身体的特徴によりされる人類学上の区別。

   イ 信条

     個人の基本的なものの見方考え方をいい宗教上の信仰のみならず広く思想上政治上の主義を含む

     信条を理由とした不平等は思想・良心の自由の問題となることも多く平等原則はメインでないことも多い。

   ウ 性別

     男女の性別のこと。

   エ 社会的身分

     人がある程度長期にわたり持続する地位のこと。そのため「自分の意思では変えることのできない固定した地位」等と狭く解しないのが一般。

   オ 門地

     家柄のこと。

※なお憲法14条1項は例示列挙でありこれ以外を理由とする差別であっても本条によって(合理的な理由なく)許されないことは一般に認められた考えである

⇒すなわち能力を理由とした差別であっても「合理的な差別」でなければ違憲になる

違憲性審査の厳格さに関して

憲法14条1項の列挙事由にあたるか否か

     列挙事由が例示列挙であるとしても歴史上不当な差別をされた理由となってきたものを掲げているから厳しく審査するという立場がある(いわゆる「特別意味説」)。

当人の努力ではどうしようもない場合

     たとえば「肌が黒い」という理由で白米を食べることを禁止した場合には肌を白くするには全身整形をするほかなく事実上当人には対応することができない問題であるがそのような理由による扱いの際は当人によって脱することができず事実上永続的な効果をもたらすものであるからより慎重に検討すべきといえるのである。

   

取扱いの差異いかなる権利利益に対してされているか

     精神的な自由は経済的自由よりも重要度が高い。そのため精神的自由に関する不平等(例:反政府思想を持っている人は持っていない人に比べて税金を倍にする)は経済的自由に関する不平等(例:年収1000万円の人は年収300万円の人に比べて税金を倍にする)よりも厳格に審査される。

 

 

平等原則が問題となる具体例

判例

問題点

比較対象

結論

備考

最判昭和48

改正前刑法00条(尊属殺人)の違憲性

 

改正前200条と刑法199条

法定刑において改正前200条は死刑又は無期懲役のみと定めていため立法目的のための必要な限度を遥かに超えるから違憲とした

立法目的自体は尊属に対する尊重というものであって社会生活上の基本的道義というべきであり刑法上の保護に値するとした

最大判平成25.9.4

改正前民法900条4号ただし書(非嫡出子の法定相続分を嫡出子のそれの2分の1とした規定)の合憲性

非嫡出子の法定相続分と嫡出子の法定相続分

①我が国の婚姻や家族の実態の変化その在り方に対する国民の意識の変化②このような差異を設けている欧米諸国はない等という諸外国の状況の大きな変化等を踏まえると父母が婚姻関係になかったという子にとっては自ら選択ないし修正する余地のない事柄を理由としてその子に不利益を及ぼすべきではないから違憲

 

最大判平成20・6・4

国籍法3条1項(日本国民である父とそうでない母との間に生まれた非嫡出子のうち父が認知し父母が婚姻した場合のみ届出により国籍取得を認めている規定)の違憲性

日本国民である父とそうでない母との間に生まれた非嫡出子のうち父が認知し父母が婚姻した子(準正子)と日本国民である父とそうでない母との間に生まれた非嫡出子のうち父が認知し父母が婚姻しなかった子

国籍がわが国において基本的人権の保障公的資格の付与公的給付等を受ける意味で意味を持つ重要な法的地位であること②嫡出子たる身分を取得するかどうかは子にとって自らの意思や努力では変えられない父母の身分行為に係る事柄であるからその区別の合理性を慎重に検討すべきでありこのような子の不利益は看過しがたく立法目的との間に合理的関連性を見出しがたい

国籍法3条1項全体を違憲としたのではなく“父母が婚姻した場合”という要件のみを違憲無効としその余の定めは合憲として維持した。

※本判例は法令違憲の効力の問題としても勉強になる

最判昭和33.10.15

都売春等取締条例により売春を禁止する条例の違憲性

売春を罰する条例のある県とそうでない県(で売春をおこなった場合の処遇の差異)

憲法94条が条例制定権を認めるのは地方の実情に応じた取扱いをすることが合理的であるからでありその結果地域のよって差別が生じることは当然に予期されることであって憲法が容認

しているものといえ合憲

条例制定権についても頻出の争点なので復習しておいいてほしい

 

【ゼロから始める法学ガチ解説シリーズ】司法権の限界とは?【憲法解説】

問題の所在

司法権の概念

    司法とは,「具体的な争訟について,法を適用し,宣言することによって,これを裁定する国家の作用」をいう。これをより厳密に定義すれば,「当事者間に,具体的事件に関する紛争がある場合において,当事者からの争訟の提起を前提として,独立の裁判所が統治権に基づき,一定の争訟手続によって,紛争解決のために,何が法であるかの判断をなし,正しい法の適用を保障する作用」をいう。

司法権の範囲

    憲法(以下法名略)76条1項は,「すべて司法権は,最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する」と規定する。このように,日本国憲法は,行政事件の裁判も含めて全ての裁判作用を「司法権」とし,これを通常裁判所に属するものとした。この趣旨は,76条2項が,特別裁判所の設置を禁止し,行政機関による終審裁判を禁止しているところに示されている。

法律上の争訟

    司法権の概念の中核をなす「具体的な争訟」という要件は,具体的事件性の要件と言われることも多い。判所法は,「裁判所は,一切の法律上の争訟を裁判」する旨規定する(裁判所法項)が,この「一切の法律上の争訟」も同じ意味である

    判例は,「法律上の争訟」とは,①事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争であって,かつ,②それが法令の適用により終局的に解決することができるものに限られる,と解している。
  この「法律上の争訟」に当たらず,したがって,裁判所の審査権が及ばない場合又は事項としては,以下のものが挙げられる。すなわち,
第一は,具体的事件性もないのに,抽象的に法令の解釈又は効力について争うことである(例,警察予備隊違憲訴訟(最大判昭和27年10月8日民集6巻9号783頁))。第二に,単なる事実の存否,個人の主観的意見の当否,学問上・技術上の論争などである(例,国家試験における合格・不合格(最判昭和41年2月8日民集20巻2号196頁))。第三に純然たる信仰の対象の価値若しくは宗教上の教義に関する判断自体を求める訴え又は単なる宗教上の地位(住職の地位等)の確認の訴えである(最判昭和56年4月7日民集35巻3号443頁(「板まんだら」事件))。

したがって,例外的に,法律で特別に定められた個別の訴訟(公職選挙法203(地方公共団体の議会の議員及び長の選挙の効力に関する訴訟)204(衆議院議員又は参議院議員の選挙の効力に関する訴訟)等)が司法権の対象となるものの,このように,「法律上の争訟」の要件を満たさない紛争は司法権の対象とならない。

反面,形式的に法律上の争訟」に当たればすべてが司法権の対象となるわけではなく,一定の限界があるので,以下,司法権の限界について説明する。

司法権の限界

国際法上の限界

  まず,確立された国際法規(例えば,外交使節の治外法権)や,条約による裁判権の制限(例えば,日米地位協定による駐留米軍の構成員に対する刑事裁判権についての一定の特例)のように,国際法によって司法権が及ばない場合がある。

憲法の明文上の限界

次に,議員の資格争訟の裁判(55条)裁判官の弾劾裁判(64条)は,憲法で特別に規定され,司法権の対象外とされている。また,恩赦について,その法的性格を司法と解すれば,恩赦の決定は内閣によってなされる(73条7号)から,これも憲法の明文上の限界ということになる。

憲法上含意的に認められる限界

  これらのほか,法律上の係争ではあるが,事柄の性質上裁判所の審査に適しないと認められるものがある。

自律権に属する行為

自律権とは,懲罰や議事手続など,国会又は各議院の内部事項については自主的に決定できる権能をいい,議院規則制定権(58項),議員懲罰権(同),院内組織の決定権,役員選任権(同条項)等が規定されている。自律権に基づく行為について裁判所の審査権が及べば議院の自律権は貫かれなくなってしまうから,除名を含む所属議員の懲罰,議長その他の役員の選任,定足数の充足の認定等の議事手続については,事柄の性質上,裁判所の審査に適しないと解される。

大判昭和37日民集16445(警察法改正無効事件)は,昭和29年に成立した新警察法は,審理に当たり,野党議員の強硬な反対のため議場混乱のまま可決され,その議決が無効ではないかが争われた事案について,警察法が両院において議決を経たものとされ,適法な手続によって公布されている以上,裁判所は両院の自主性を尊重すべく同法制定の議事手続に関する事実を審理してその有効無効を判断すべきではない旨判示した。

立法上及び行政上の裁量行為

憲法は,立法するかどうか,その時期,内容等に関して必ずしも 一義的に立法府を拘束していない場合が多いが,このような場合に,裁判所は立法府の立場をなるべく尊重しなければならず,立法府がその裁量を逸脱した場合にのみ違憲判断を下すことができる。例えば,最大判昭和5114日民集30223頁は,衆議院議員の選挙における選挙区割と議員定数の配分の決定は,多種多様で,複雑微妙な政策的,技術的考慮要素を伴い,国会の裁量に委ねられていると考えざるを得ないが,投票価値の不平等が一般的に合理性を有するものとは到底考えられない程度に達しているときは,国会の合理的裁量の限界を超えているものと推定される旨判示した。

また,行政法規がいつ,どのような行為をすべきか否かについて 一義的に行政庁を拘束していない場合には,行政庁の自由裁量が認められ,司法審査権は及ばないとされるが,行政庁が裁量の範囲を逸脱し,あるいは裁量権を濫用した場合には,裁判所の審査権が及ぶ(行政事件訴訟法30条参照)。

統治行為

統治行為とは,一般に,直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為で,法律上の争訟として裁判所による法律的な判断が理論的には可能であるのに,事柄の性質上,司法審査の対象から除外される行為をいう。

大判昭和35日民集141206頁(苫米地判決は,衆議院の抜き打ち解散の効力について争われた事案において,直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為のごときはたとえそれが法律上の争訟となり,これに対する有効無効の判断が法律上可能である場合であっても,かかる国家行為は裁判所の審査権の外にあり,その判断は主権者たる国民に対して政治的責任を負うところの政府,国会等の政治部門の判断に委され,最終的には国民の政治判断に委ねられているものと解すべきである」旨判示し,衆議院の解散は統治行為に当たるとした。

統治行為論の根拠の考え方としては,大きく分けてつあり,ひとつは,統治行為に対して司法審査を行うことによる混乱を回避するため裁判所が自制すべきであるとする自制説である。これに対し,上記判決は,「この司法権に対する制約は,結局,三権分立の原理に由来し,当該国家行為の高度の政治性,裁判所の司法機関としての性格,裁判に必然的に随伴する手続上の制約等にかんがみ,特定の明文による限定はないけれども,司法権の憲法上の本質に内在する制約と理解すべき」と判示し,高度の政治性を帯びた行為は,国民によって直接選任されていない裁判所の審査の範囲外にあり,その当否は国会や内閣の判断に委ねられるべきであるとする内在的制約説に立つことを明らかにしている。これらの両説に対しては,決め手に欠けるとの批判があり,内在的制約と理解しつつも,自制説の要素を加味し,権利保障及び司法救済の必要と裁判の結果生じる事態,司法の政治化の危険性,司法手続の能力の限界,判決実現の可能性等の諸点を考慮に入れ,事件に応じて具体的にその論拠が明らかにされるべきであるとする折衷説の立場が有力である。

統治行為は,「高度の政治性」という不明確な属性を有していることから,その範囲と限界が問題となる。学説においては,憲法上明文の規定もなく,内容も不明確な概念であるから,自律権,裁量行為等で説明できるものは除外すべきである,あるいは,統治行為の根拠が民主政の理論にある以上,その前提となる,基本的人権,特に精神的自由権の侵害を争点とする事件には適用すべきではないなどの指摘がなされている。

団体の内部事項に関する行為

   総論

地方議会,大学,政党,労働組合,弁護士会等の自主的な団体

の内部的事項については,その団体の自治を尊重して,その自治的措置に委ねられ,司法権が及ばない領域と解されるが,単なる内部規律の問題とはいえないような重大事項ないし一般市民法秩序と関連する事項は司法審査の対象となる。なお,これらの団体を一般市民社会の中にあってこれとは別個に自律的な法規範を有する特殊な部分社会であるとし,これを理由に,その内部紛争はすべて司法審査の対象にならないとする見解もあるが,このような法秩序の多元性を前提とする一般的,包括的な部分社会論は妥当でない。そこで,それぞれの団体の目的,性質,機能,自立性・自主性を支える憲法上の根拠等が異なるのであるから,これらの観点や,紛争や争われている権利の性質等を考慮に入れて個別具体的に司法権が及ぶか否かを判断すべきである,と解する

  地方議会

地方議会と憲法上高度の自律権が保障されている国会の各議院とでは,同じ自律権といっても,同一には論じることはできない。最大判昭和351019日民集14122633頁は,地方議会議員に対する日間の出席停止の懲罰議決の効力が争われた事案において,除名処分のような議員の身分の喪失に関する重大事項で,単なる内部規律の問題にとどまらない場合を除き,議員の出席停止のような権利行使の一時的制限にすぎない場合については,地方議会の内部規律の問題としてその自治的措置に委ねるのが適当である旨判示した。

      これに対し,最高裁は,近時,普通地方公共団体の議会の議員に対する出席停止の懲罰の適否は,司法審査の対象となるというべきであるとして,上記判例を明示的に変更した(最判令和2年11月25日裁判所時報1757号3頁)。この中で,最高裁は,出席停止の懲罰は,公選の議員に対し,議会がその権能において科する処分であり,これが科されると,当該議員はその期間,会議及び委員会への出席が停止され,議事に参与して議決に加わるなどの議員としての中核的な活動をすることができず,住民の負託を受けた議員としての責務を十分に果たすことができなくなるのであり,このような出席停止の懲罰の性質や議員活動に対する制約の程度に照らすと,これが議員の権利行使の一時的制限にすぎないものとして,その適否が専ら議会の自主的,自律的な解決に委ねられるべきであるということはできず,そうすると,出席停止の懲罰は,議会の自律的な権能に基づいてされたものとして,議会に一定の裁量が認められるべきであるものの,裁判所は,常にその適否を判断することができるというべきである旨判示した。

       大学

大学の自律権は,大学の自治の保障に根拠があるといえる。 昭和5215日民集31234頁は,国立大学の単位不認定処分が争われた富山大学事件で,大学は国公立であると私立であるとを問わず,一般社会とは異なる特殊な部分社会を形成しているとし,単位授与行為は,他にそれが一般市民法秩序と直接の関係を有するものであることを肯認するに足りる特段の事情のない限り,純然たる大学内部の問題として大学の自主的,自立的な判断に委ねられるべきである旨判示した。

政党

昭和631220日判例時報1307113頁は,政党の党員の除名処分の効力が争われた共産党袴田事件において,政党は結社の自由に基づき任意に結成される政治団体であり,かつ,議会制民主主義を支えるきわめて重要な存在であるから,高度の自主性と自律性を与えて自主的に組織運営をなしうる自由を保障しなければならないとし,政党の党員処分が一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題にとどまる限り,裁判所の審判権は及ばないが,仮に,一般市民としての権利利益を侵害する場合であっても,その処分の当否は,当該政党の自律的に定めた規範が公序良俗に反するなどの特段の事情のない限りその規範に照らし,規範を有しないときは条理に基づき,適正な手続に則ってなされたか否かによって決すべきであり,その審理もその点に限られる旨判示した。

【ゼロから始める法学ガチ解説シリーズ】国会の権能とは?【憲法解説】

 本記事では予算に関する国会の権能について解説する。

統治機構の概説

統治機構の基本原理

    近代憲法は,権利宣言と統治機構の二つの部分から成り,統治機構の基本原理は国民主権と権力分立である。

    国民主権の原理には,国の政治の在り方を最終的に決定する権力を国民自身が行使するという権力的契機,国家の権力行使を正当付ける究極的な権威は国民に存するという正当性の契機の二つの内容が存在する。

権力分立は,国家権力が単一の国家機関に集中すると,権力が濫用され,国民の権利及び自由が侵されるおそれがあるので,国家の諸作用を性質に応じて立法,行政及び司法というように区別し,それを異なる機関に担当させるよう分離し,相互に抑制と均衡を保たせる制度であり,その狙いは,国民の権利及び自由を守ることにある。

国会

    国会は,全国民を代表する選挙された議員により組織された(憲法(以下法名略)43条1項),国権の最高機関であって,国の唯一の立法機関として(41条)立法権を独占している。

内閣

    内閣は,行政活動全体を統括する地位にあり,行政権は内閣に属するものとされている(65条)。ここにいう「行政」とは,全ての国家作用のうち,立法作用と司法作用を除いた残りの作用であると解するのが通説である。

司法

    全て司法権は,最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する(76条1項)。ここにいう「司法」とは,具体的な争訟について,法を適用し,宣言することによって,これを裁定する国家の作用をいう。

総論

予算の意義及び財政民主主義

予算の意義

予算とは,1会計年度における国の歳入歳出の予定的見積もりを内容とする国の財政行為の準則をいう。歳入については,その性質上,単なる収入の予定の意味合いが強いが,歳出については,その使途及び金額に関し,政府を拘束する。そのため,予算は,単なる見積表ではなく,国家の行為を規律する法規範である。

財政民主主義

予算は,会計年度ごとに内閣によって作成され,国会に提出された後,両議院の審議・議決を経て成立する(73号,86条)。83条は,「国の財政を処理する権限は,国会の議決に基づいて,これを行使しなければならない。」と規定し,国の財政処理の権限を国会のコントロールの下に置く財政国会中心主義の原則を採用している。これは,国民から金銭を租税として徴収し,集められた金銭を配分するという点で,国家の財政は国民の生活に直結していることから,財政を国民の代表者で構成される国会(43条1項)の意思にかからしめることによって,ひいては広く国民の意思に基づかせることを要求する財政民主主義の表れである。そこで,憲法は,こうした財政国会中心主義の趣旨に鑑み,財政の準則である予算についても,その成立に国会の議決を要求している。

予算の議決手続

憲法は,予算の提出権及び議決方法に関し,一般の法律とは異なる特別な定めをしている。まず,上記のように,予算は内閣によって作成される。すなわち,予算の作成及び提出権は内閣に専属する(86条)。予算の作成に当たっては,社会経済動向の把握を要し,計数のみを内容とするなどの点で,専門的・技術的能力が要求されることから,この権能を内閣に委ねたのと考えられている。

予算は,先に衆議院に提出しなければならず,衆議院に先議権が与えられている(60条1項)。衆議院での先議後,予算は参議院に送付される。予算は両議院の可決によって成立する。ただし,参議院で衆議院と異なった議決をした場合は,両院協議会を開き,そこでも意見が一致しないとき,又は参議院が,衆議院の可決した予算を受け取った後,国会休会中の期間を除いて30日以内に議決しないときは,衆議院の議決が国会の議決とされ(同条2項),法律の場合よりも衆議院の優越が強く認められている。

成立した予算を公布することは,憲法上要求されていないが(7条1号参照),実際には官報で公示されている。

予算の法的性格

予算の法的性格については,①予算行政説,②予算法律説,③予算国法形式説などの考え方がある。

予算行政説

予算行政説は,予算は本来行政行為であり,議会に対する意思表示にすぎず,法規範性を持たないとするものであるが,予算に法規範性を認めない点で,憲法が採用する財政民主主義の原則と相容れない。

予算法律説

予算法律説は,予算は,法規範であるのみならず,それ自体法律であると解する考え方である。しかし,予算は政府を拘束するのみで,一般国民を拘束しない,予算の効力は1年に限られ,一般の法律のように永続性がない,予算の内容は計数のみを扱う,法律とは別個の議決手続が規定されている(59条,60条),との点で,予算が法律そのものであると解することは困難であると批判される。

予算国法形式説

こうした予算の特質に鑑み,予算は法律そのものではなく,「予算」という法律とは異なる別個の法形式であると解する③予算国法形式説が,今日の多数説である。

予算に関する国会の権能

予算の議決

    上記のとおり,予算は,会計年度ごとに内閣によって作成され,国会に提出された後,両議院の審議・議決を経て成立する(73号,86条)。83条は,「国の財政を処理する権限は,国会の議決に基づいて,これを行使しなければならない。」と規定する。したがって,国会は,予算を議決し,予算を成立させる権能を有する。

予算と法律の不一致

予算は,国家の財政支出についての国会の同意に過ぎず,その前提となる実体法上の根拠は,別途法律で定められなければならない。もっとも,予算と法律をそれぞれ別個の法形式と解すると,法律相互のように後法が前法を廃するという関係に立たない上,予算及び法律の議決手続に違いがあることなどから,予算と法律の間に不一致が生じ得る。

法律は制定されたが,その執行に必要な予算が成立していない場合

「法律を誠実に執行」する義務を負う内閣(73条1号)としては,補正予算の作成(財政法29条)や予備費の支出87条,財政法35条)などの措置を講じることになろう。

しかし,予算の作成及び提出は内閣の権能であるから,国会は当該措置に関し,何らの義務を負わないと考えられている。

予算は成立したが,その支出を命じる法律が制定されていない場合

予算に当該支出を計上した内閣としては,法律案の提出などによって当該施策の実施に努めるべきである。もっとも,国会はそのような予算を議決した以上,道義的には当該法律の制定に努めるべきであるが,制定すべき法的義務までは負わないと解されている。

予算の修正

上記のとおり,予算は国会の議決により成立するが,国会が,内閣の提出した予算に修正を加えることは許されるのか。

減額修正

財政民主主義の原則を尊重すべきであること,減額修正であれば,内閣の予算発案権を害するおそれがないことから,国会は無制限に減額修正ができると解されている。

増額修正

予算の発案及び提出権が内閣に専属していることを重視して,国会が予算の増額修正をすることは全くできないと解する説もあるが,財政民主主義の原則の重要性に照らせば,国会による予算の増額修正も可能と考えるべきである(国会法57条の3,財政法19条も増額修正が可能であることを前提としている。)。

もっとも,その限界については,国会は予算全体を否決することもできるのであるから,減額修正と同様に,増額修正にも限界はないと解する考え方も有力に唱えられているが,内閣の予算の発案及び提出権に鑑み,予算の同一性を失わせるなど,内閣の当該権限そのものを否定する程度に至る大幅な修正は許されないとするのが多数説(政府見解)である。

なお,国会法57条の3は,予算の増額修正について,内閣に意見を述べる機会を与えなければならないとしている。

決算とは,1会計年度における国の収支の実績を示す確定計算書をいう。予算と異なり,法規範性はない。

90条1項は「国の収入支出の決算は,すべて毎年会計検査院がこれを検査し,内閣は,次の年度に,その検査報告とともに,これを国会に提出しなければならない。」と規定している。

国会は,決算を審査することにより,予算の執行が現実に適正に行われたかどうかを検討し,内閣の政治的責任を明らかにするとともに,将来の財政計画等の策定に備えることができる。

結語

   以上によれば,国会は,予算を作成する権能を有していないが,内閣により作成及び提出される予算を議決し,予算を成立させる権能を有する。そして,予算と法律に不一致が生じた場合でも,これらが一致するようにすべき法的な義務を負うものではない。

また,国会は,無限定に予算を減額修正することができ,一定程度,増額修正する権能も有する。さらに,国会は,決算の権能を有し,内閣の政治的責任を明らかにするとともに,将来の財政計画等の策定に備えることができる。

未必の故意とは?現役弁護士がわかりやすく解説!【刑法38条】

刑法38条では、故意と未必の故意が犯罪成立の要件とされていますが、その違いと判断基準はご存知でしょうか? この記事では、故意と未必の故意の定義や区別の方法、判例や学説の見解などを詳しく解説します。 刑法の基礎知識として、ぜひご覧ください。

故意とは何か? 刑法38条の規定と意義

刑法38条1項本文には、「罪を犯す意なき行為はこれを罰せず」とあります。これは、故意を犯罪成立の基本的要件としていることを示しています。故意とは、簡単に言えば、「犯罪事実の認識」を意味します。

では、なぜ故意が必要なのでしょうか? それは、刑罰は、行為者に対する非難の表明であり、その非難が正当化されるためには、行為者が自分の行為について責任を負うことができる状態にあったことが必要だからです。このような考え方を「責任主義」と呼びます。

責任主義に基づくと、ある者が違法行為を行ったとしても、その行為について行為者が何も知らなかったり、理解できなかったりした場合には、行為者を非難することはできません。そのような場合には、故意がないと判断されます。

一方、行為者が自分の行為が違法結果を引き起こすことを認識した上で、それを意欲したり、あるいは容認したりした場合には、行為者に対する非難が可能です。そのような場合には、故意があると判断されます。

故意の内容について対立する二つの説:意思説と表象説

故意とは、「犯罪事実の認識」を意味すると言いましたが、その具体的内容については、基本的に二つの立場が対立しています。一つは、故意の成立には結果惹起の意欲が必要であるとする説で、これを「意思説」と呼びます。もう一つは、結果発生の認識で足りるとする説で、これを「表象説」と呼びます。

これらの違いを殺人罪を例にとって説明しましょう。ある者が、短刀で相手方の肩部を深く突き刺し、死亡させたという場合を考えます。この場合、意思説によれば、行為者が相手方の死を意欲して行為に及んだ場合には殺人の故意責任を認めますが、単に相手方が死ぬかもしれないということを認識していただけでは故意責任を認めるには足りません。これに対し、表象説によれば、いずれの場合でも故意責任が認められます。

未必の故意とは何か? 故意と過失の境界

両説の違いが生じる部分、すなわち、「意欲していない違法結果発生の可能性の認識」が「未必の故意」です。未必の故意とは、結果発生の可能性を認識しながらも、それを容認して行為に及んだ場合に認められる故意の一種です。

前述のとおり、故意は「反対動機」という良心の抑止力に反抗して行為に及んだことへの非難の基礎をなすものです。行為者が違法結果を意欲して当該行為に及んだ場合には、まさに反対動機を意識し、これに逆らって違法行為に及んだのですから、右の非難が可能なことは明らかです。

これに対し、未必の故意の場合には、反対動機の発生がそれほどまでに明確であるとは言い難いです。そこで、未必の故意の場合にも故意責任を認めることができるのかが問題となります。

しかしながら、未必の故意がある場合にも、ある行為をすれば違法結果が発生するかもしれないと認識している以上は、結果を意欲した場合と同様の反対動機の発生が期待できるはずです。前記の例でいえば、肩部に深く短刀を突き刺せば相手方が死ぬかもしれないと認識する以上は、「人を殺すようなことをしてはいけない」という反対動機が働くことが期待できるのです。したがって、結果発生の認識がなく、それに対する反対動機の形成も期待できない場合に比べれば、反対動機の形成が期待できるという点で、未必の故意は通常の故意と同等に評価できると言えます。そうだとすれば、未必の故意がある場合には、結果発生の可能性について認識がある以上、「人が死ぬかもしれない」ということを認識せずに行為に出た場合に比して、一段と重い法的非難を受けても当然と言わざるを得ません。

以上のようなことから、未必の故意は、故意責任を基礎づけるに足るものとして、学説判例上評価されています。

未必の故意と認識ある過失とを区別する二つの説:蓋然性説と認容説

以上は、故意責任の方向からの未必の故意の検討でしたが、未必の故意の範囲を画するためには、過失の方向からの検討も不可欠です。

過失の中には「認識ある過失」という類型が存在します。これは、結果発生の可能性を一応認識したものの、状況判断を誤り、あるいは自己の技量を過信して、当該行為に関する限り結果発生を避け得ると判断して行為に及んだ場合を指します。

具体例でいえば、自動車を運転して歩行者のそばをすりぬけようとしたところ、これを轢き殺してしまったという事例において、運転者が「轢き殺しては大変だが、運転には自信があるから絶対に大丈夫だ」と思っていたような場合が、この「認識ある過失」に該当します。前記の表象説をそのまま当てはめれば、このような認識ある過失も、結果発生の可能性を認識していた以上、未必の故意に含まれることになり、運転者には殺人の故意責任が問われることになります。

そこで、未必の故意と認識ある過失とを区別することが必要になってきます。この区別については、二つの説が対立しています。結果発生の可能性が相当高度のものとして認識されていたか否かによって区別する説(蓋然性説)と、行為者が結果発生の可能性を認識した上に、さらにその結果発生を「認容」したか否かによって区別する説(認容説)です(蓋然性説は表象説を、認容説は意思説をそれぞれ修正したものだと言われています)。

前の例でいえば、蓋然性説に従えば、運転者が相当高度な可能性があると判断していた場合には故意責任を認め、可能性が低いと判断していた場合には故意を否定することになります。これに対し、認容説によれば、運転者が、歩行者を轢き殺すことを認容していた場合に故意を認め、認容していない場合には故意を否定するということになります。したがって、蓋然性説に立つと、たとえ運転者が結果の発生を認容し、あるいは積極的ないし消極的に意欲していたとしても、運転者が結果発生の可能性は低いと判断していた場合には故意の責任を問うことができなくなってしまいます。そこで、現在では認容説が通説となっており、判例も認容説にしたがっていると理解されています。

まとめ

この記事では、故意と未必の故意の違いと判断基準についてわかりやすく解説しました。故意と未必の故意は、刑法38条に基づく責任主義の観点から重要な概念です。刑法の基礎知識として、ぜひ覚えておいてください。

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